世間の皆さんおはよーさん、、


昨日沖縄の米軍兵士が未成年に暴行したって事件が発生から遅れて発表されたとニュースになっていたが、ホンマ腹立たしい。

平成7年に幼い少女が暴行されて大問題になったにもかかわらずまた起きた。原因がどうであれアカン事はアカンのやから。加えてその事実が沖縄県にも通報してないとか、、そりゃ沖縄県の皆さんが怒るの当たり前や。、、駐留米軍全てが悪いわけではないが一部の鬼畜の行為が全てを台無しにしてしまう。


天皇皇后両陛下や英国公式訪問も今日までかな、思い出の地オックスフォードを訪問されご帰国の途につかれるようですがご無事でのお帰りをお祈り申し上げます。






さて、杉山邦博さんの名古屋場所コラムは最終回、、


❖白鵬時代とモンゴル力士たち 最終回


 

さて、前回の続きをお話しましょう。


大相撲が一気に国際化したことで、楽しみが増えた反面“国技とは何ぞや”という意見がしきりに飛び交うようになりました。


高見山に始まり、小錦、曙、武蔵丸ら、ハワイ勢のパワーあふれる取り口が、相撲の内容そのものを変えてしまったようでした。続いて琴欧州、把瑠都らヨーロッパ勢が土俵を沸かせましたが、何といってもモンゴル勢を抜きにしては語れない相撲界になったと言わざるをえません。


1992年、大相撲史上初のモンゴル出身力士として旭天鵬、旭鷲山、旭天山の3者が入門し、モンゴル勢の道を作りました。その後、テレビの国際放送などを見た朝青龍らが、大挙して日本の大相撲へ入門を目指すようになります。なかでも朝青龍はその筆頭で、名古屋場所においては平成16年から4年連続で優勝を果たし、通算優勝回数も25回を数えるなど、時代を席巻する活躍ぶりだったことは、今も皆さんの記憶に新しいのではないでしょうか。


外国出身力士隆盛の相撲界において、朝青龍は日本人に近い存在として人気を集めました。肌の色はもとより、身長184センチ・体重150キロの日本人力士とほとんど変わらない体格。また、前述したハワイ勢によるパワー一辺倒の相撲のなかで、大相撲の原点に帰ったかのような朝青龍の取り口が、大いにファンを惹きつけました。


私は当時の「大型の外国出身力士に力負けしないよう、とにかく太らなければ」という風潮や、まるで“相撲”そのものが一変してしまったかのような土俵の様子を危惧していました。そんななか台頭した朝青龍が、土俵狭しと多彩な技を駆使し、投げや足技など派手な勝ち方でファンの溜飲を下げ、大相撲の魅力を取り戻してくれたのです。


朝青龍は、高知明徳義塾高校へ相撲留学し、高砂部屋(当時は若松部屋)へ入門しました。平成11年に初土俵を踏んでからあっという間に番付を上げ、平成15年の初場所後に横綱昇進を決めました。その頃には若貴兄弟や曙、武蔵丸らが相次いで引退し、彼を阻む大きな壁がなかったことも味方しました。しかしただ番付運が良かっただけではなく、過去のビデオを繰り返し見て、先人たちの相撲を学ぶ研究熱心な一面もありました。


一方で、このスピード出世が結果的に朝青龍の力士としての寿命を縮めてしまった感もあります。早すぎる昇進とライバル不在の状況で朝青龍は天狗になり、わがままな言動が目立つようになりました。この点は、師匠の甘さもありました。高砂親方(元朝潮)は好人物ですが、朝青龍に対しては「本人の自主性に任せる」と、厳しく指導しなかったのです。


そうこうするうち、世間を残念なニュースが賑わせました。平成19年の名古屋場所で、朝青龍が21回目の優勝を果たした直後のことです。腰と肘のケガで診断書を出し、早々に夏巡業の休場を決めた朝青龍が、モンゴルへ無断帰国し、サッカーに興じていたのです。


3場所ぶりの優勝でファンを喜ばせた直後の出来事で、名古屋場所での評価が霞んでしまいました。その後も4度優勝しましたが、平成22年初場所の優勝を最後に、場所中に土俵外で起こした騒動と、過去の不祥事の責任を取る形で引退しました。


彼に対しては悪い印象が残りがちですが、一方で、若貴引退後一気に人気が下降した相撲界を、その強さと明るいキャラクターで盛り上げ、支えていたのも朝青龍です。今は白鵬抜きにして土俵を語ることはできませんが、白鵬が成長し横綱となるまでの間、一人奮闘した朝青龍に相撲界が救われていたことは間違いありません。横綱としての強さは申し分なかっただけに、自らを律してくれていたらと、今でも残念に思うのです。


さて、朝青龍から第一人者としてのバトンを託され、現在10年以上、横綱として大相撲を牽引している白鵬です。


白鵬は2000年にモンゴルから来日し、朝青龍を目標に技を磨き、横綱にのぼりつめました。朝青龍の背中を追いかけていた事は確かですが、一方、反面教師としていたところもあります。横綱として強さを求める一方で、とりわけ白鵬が、大相撲の“心・技・体”の“心”を学び続けてきたことは、特筆されるべき点です。横綱になって11年目を迎えようとしている今、あらゆる記録を更新し続けている影には、この“心”の部分を追求する白鵬の、並々ならぬ努力があるのです。


大相撲には「礼に始まり礼に終わり、常に謙虚に過ごすべし。勝者は敗者の胸中を察して過ごすべし」という抑制の美があり、それこそが伝承文化と言われるゆえんです。私は何度も白鵬と個人的に話していますが、彼がそれを日夜心において過ごしているということを、会う度に感じるのです。


平成22年、白鵬が相撲界の神様的存在として語り継がれているかつての大横綱・双葉山の連勝記録“69”に挑み、惜しくも64勝目で稀勢の里に破れたこと、63連勝の史上2位記録を持っていることは、ご存じの方も多いと思います。


この頃私は、かつて双葉山が70連勝ならずで語った「未だ木鶏たり得ず」という言葉について、白鵬に解説を請われて“荘子”の一説を噛み砕いたものを書いて渡したことがあります。白鵬は、双葉山の人物像を力士としての鑑ととらえ、記録に挑むと同時に、木鶏に例えられる“泰然自若”の境地をも目指していたのです。


余談ですが、横綱土俵入りで蹲居して柏手を打つ際、白鵬の足は他の横綱と違って俵の上にありますから、ぜひ注意して見てみてください。平らな土俵上と比べて明らかにバランスが取りにくい俵の上で蹲居するのは、実は双葉山と同じやり方です。白鵬と双葉山は土俵入りの型は異なるのですが、細かい所作からもその精神性を受け継ぎたいという気持ちの現れで、いかに双葉山に心酔しているかがうかがえます。


場所中は、日本相撲協会の外部理事だった村山弘義氏(元東京高検検事長)が理事長代行を努めていました。協会挨拶では、相撲の神に頭を垂れ、一連の不祥事をファンに謝罪し、角界の再生を誓った村山氏の横で、白鵬も共通の思いでいたのに違いありません。


この時期、白鵬は前述した63連勝のさなかにありました。場所中にも様々な問題が噴出し、大相撲の存在そのものを揺るがしかねない状況でしたが、大鵬の連勝記録“45”を超えるなど、横綱の責任を果たしました。


しかし、記録更新も優勝も、テレビの生中継がなかったために、その瞬間を共有できたのは会場につめかけた観客だけでした。表彰式では、ファンの声援が心の支えだったと涙を浮かべ、賜杯を抱けない複雑な胸中を明かしました。


この最悪の事態を“最後の再生の機会”と捉え、白鵬以下力士たちが謙虚に国技のあるべき姿を見つめ直し、「土俵の充実」を目指して精進しました。その後、遠藤を始めとした20代の人気力士の登場や、若い親方の意見で今までにないファンサービスも行われ、さらに稀勢の里の横綱昇進で、ご存知のように今、大相撲はかつてない人気を得ています。


不祥事をきっかけに協会が体制を一新し、白鵬を先頭に力士たちが努力したからこそ、大相撲のあるべき姿に生まれ変わることができた、ということです。しかし今後への期待と応援を込めて、あえて最後に厳しい言葉を申し上げたいと思います。


「満月はいつまでも続かないんだよ」


これは、かつて若貴フィーバーに沸いた頃、土俵の鬼・初代若乃花の二子山理事長が語った言葉です。


(おわり)


杉山邦博の土俵を見つめて60年 名古屋場所60周年記念特別編


2017年7月31日


❖本文は中日新聞の杉山邦博の土俵を見つめて60年 名古屋場所60周年記念特別編から引用抜粋して掲載しました。 

https://plus.chunichi.co.jp/blog/sugiyama2/article/589/6483/


◇ワシの大相撲空白期間

杉山邦博さんのコラムが白鵬時代で終わっとる。今でこそ連日貴景勝!貴景勝!とお騒がせしとるがワシの相撲好きは爺さんの影響から物心ついたときからずっとですわ。横綱朝汐の顔見てその大きさと閻魔大王みたいな顔に恐がり泣いた時からや。

巡業に来た親方にスカウトされて逃げたこともある(笑)そんな相撲好きなワシやが一時期離れた時期があるんや。それが朝青龍、白鵬時代。

本場所の結果は毎場所見てた。やが内容も当時の力士達も殆ど知らん。モンゴル勢に角界が席巻されて相撲がつまらんかったしオモロくないと感じたからや。丁度その時期、ワシは仕事で日本中を行き来したり、東南アジアに3.4年いたりして忙しくしていた時期でもあった。彼の地はNHKの国際放送流れていてそれなりに情報は入ったが、また朝青龍か?白鵬か?程度やった。

日本に戻りしばらくしてからやね、改めて相撲を見だしたのは。貴乃花が親方として頭角を現し出した頃からやね。

景色を振り返れば、今も昔も力士は違えどそんなに大相撲に変わりはない。敢えて違いを探すならば、皆同じような力士ばかりになってもうたかな?個性があるようで均一化しとる。

情報化社会でSMSが発達して毎日様々な話題が即時に分かる今とそんなもんは何一つなかった昭和の大相撲の環境の違いもあるやろ。

ラジオからテレビから流れる杉山さんの声や解説の神風さんの辛口の言葉、語彙力がある翌日の新聞が情報源やからね。隔世の感がありますわ。

輪島と貴ノ花の仲の良さなんて普通のファンには分からんことやから、、(笑)そんな大相撲の非日常の風景に年6回一喜一憂してたんやね。昔は、、

情報が多くて皆が『事情通』『関係者』になってもうとる今がエエのか悪いのか分からんが杉山さんのコラムを読み返して見て改めて『昭和の大相撲』の楽しかった時代を思い出しました。

杉山さんは数々の本を出されてますわ。中には廃本になっとるのもあるがフリマなんかにも仰山あります。是非皆さん読んで見て下さい。『深いエエ話』が満載です。(爺)

連続投稿しましたが、名古屋物語は最終回。次の投稿は、番付発表の時にでも、、

今日も皆さんエエ日を

【大相撲ブログ335号】