世間の皆さんこんばんは、、


今日は松本サリン事件から30年を迎えましたが改めて酷い事件でした。尊い生命を奪い罪なき人を罪人にしてしまう、その後の地下鉄サリン事件や一連のオウム真理教の神仏を恐れぬ許しがたい数々の事件に憤りを感じてます。


思えば安倍元総理襲撃事件も統一教会の二世信者によるものであった。あの凶弾で統一教会の所業の数々、政界との癒着が明るみになって今の状況があるわけやが宗教信仰の問題ってのはホンマにムズい。


遥か中東パレスチナガザ地区で起きとる悲惨な出来事も決して相容れないユダヤとイスラームとの宗教観が根底にあるしそれが世界的な地政学に複雑に絡みあっとるんやから、、幸せでありたい、平和で暮らしたい、どの宗教も願いは同じやと思うんやが、、、いやはややね、、、



昭和時代の相撲本を読んだり記事を改めて読むとその時代時代を彩る力士がいてホンマオモロイ。主役に脇役端から見るとそないに映るがそれぞれが主役でありその後の人生を左右しとる。大相撲は奥が深いね、



大相撲名古屋物語深いエエ話は第五話、


❖第五回 若貴フィーバーとライバルたち



 

昭和最後の年・63年は、若乃花、貴乃花兄弟をはじめ曙、魁皇ら、角界入門者が大豊作の年でした。昭和から平成へと時代が流れるのとともに、彼らの成長によって、相撲界も千代の富士時代から若貴時代へと大きく変化します。


千代の富士が引退した直後の名古屋場所では、北勝海、旭富士、大乃国らが綱を締め土俵をリードしましたが、ファンの目は若貴と曙の3者に釘付けになっていました。なかでも若乃花・貴乃花兄弟の出世争いが注目されたのですが、父が名大関とうたわれ大変な人気を誇った貴ノ花であったという事が、最もファンを惹きつけていたのは間違いありません。


しかし、出世争いという点では同期の曙が彼らより常に一足早く番付を上げ、若貴人気の前に実力で立ちはだかった事が今でも忘れられません。平成5年名古屋場所での、曙・若ノ花(当時)・貴ノ花(当時)による三つ巴の優勝決定戦がその最たるものでした。


当時曙はすでに横綱に昇進しており、貴ノ花は大関、若ノ花は関脇でした。巴戦ではクジで取組の順番を決めるのですが、まず曙と若ノ花が対戦。曙が若ノ花を吹き飛ばす勢いで押し倒し、勝利します。次いで土俵に上がった貴ノ花も一方的な寄り倒しで破り、横綱としての真価を見せつけたのでした


若ノ花はこの日の本割で武蔵丸との大相撲を制して決定戦に進んでおり、その疲れが一方的な敗北につながったと見ても決して間違いではありません。179センチ・119キロの若ノ花が、204センチ・200キロの曙に吹き飛ばされたときは、館内のあちこちでファンの悲鳴が上がりました。


いっぽう貴ノ花はこの名古屋が綱取り場所だったのですが、周囲の期待に応えることができませんでした。また、多くのファンは決定戦で若貴兄弟の対戦を最も期待したのですが、クジのなせるわざで史上初の兄弟対決が夢と消え、がっかりしていた姿が思い出されます。※その後平成7年の九州場所で兄弟対決が実現しました。


貴ノ花はその後も大関として綱に挑戦し続け、翌平成6年の5月場所で優勝を飾り、再び名古屋場所を綱取り場所として迎えることになりました。しかしこの時期、高まる期待の反面あらぬ事で厳しい批判にさらされる場面が多々あったことも忘れられません。


名古屋場所前の巡業の花道で、高校生がふざけて貴ノ花の背中を叩いた際、貴ノ花が相手を叩き返したという噂が広まりました。実際のところ貴ノ花は高校生をたしなめただけで、この件について一般紙は取り上げなかったのですが、スポーツ紙や週刊誌はかなり批判的に報じました。


また、名古屋場所では舞の海との対戦の際、土俵に向かって力水を吐いたと責められたこともありました。力水というのは、柄杓の水を口に含んですぐに、土俵下へ吐いて捨てるのが通例なのですが、この時貴ノ花は水を捨てずに口に含んだまま土俵へ向き直りました。ちょうど私は土俵近くの記者席でこの一連の動作を見ており「おや、力水を飲み込んでしまった、珍しい」と思いました。貴ノ花は、土俵に吐いてなどいないのです。


彼がなぜ、いつもの所作と違う動きをするに至ったのか。何を仕掛けてくるかわからない舞の海を強く警戒する気持ちや、綱取りの重圧などが混ざり合って、極度の緊張状態だったのでは、と私は見ています。そしてこれらのことは、当時貴ノ花の一挙手一投足が、相撲ファンのみならず日本中から異常なまでに注目され、また厳しい目にも晒されていたということの現れだと思っています。


結果的にこの平成6年の名古屋場所は11勝4敗で終わり、綱取りは失敗しました。しかし貴ノ花は奮起して連日厳しい稽古を自らに課し、次の秋場所では史上最年少での全勝優勝を達成しました。しこ名を貴乃花と改めた九州場所でも連続して全勝優勝の快挙を成し遂げ、ついに横綱への昇進を果たしたのです。


人気者として、若くして角界を背負うプレッシャーだけでなく、土俵以外の動きまで逐一報道されるストレスにも耐え、ぶれずに横綱を目指し掴み取ったのですから、その芯の強さは見事というほかありません。


一方兄の若乃花は、もともと中学・高校と相撲部で活躍していたのですが「弟は不器用だからそばにいてやりたい」と高校を中退し、昭和63年春、弟とともに父の藤島部屋に入門しました。このエピソードからも分かる通り、弟思いなことでも有名でした。


兄弟で火の出るような稽古に明け暮れ、弟には先を越されましたが順調に番付を上げました。弟は本格的な取り口で大横綱と呼ばれましたが、若乃花は小兵ゆえに多彩な技を駆使しながら道を切り開きました。特に曙や小錦などの大型力士を下手投げで転がした痛快な相撲が、今でも目に焼き付いています。


若乃花は平成10年の大阪場所と5月場所に大関で連続優勝し、名古屋場所では新横綱としてファンの前に姿を表しました。しかし横綱となってからは、優勝決定戦へ進みながらも賜杯を手にすることができず、その点は悔いが残ったことでしょう。足腰をはじめ身体中が限界を迎え、平成12年春場所で引退となります。


しかし大型力士隆盛の時代に小さな身体で技を磨き、兄弟揃って横綱となったのですから、その土俵人生は見事だったと言うほかないでしょう。また、気さくな人柄と持ち前の明るさで、弟同様大変な人気を集めたことは皆さんご存知のとおりです。


さて、若貴のライバルとされ、貴乃花とともに曙貴時代を築いた横綱曙についてもお話ししておかねばなりません。


曙の師匠は、昭和47年の名古屋場所で史上初の外国出身力士としての優勝を飾った東関親方(元・関脇高見山)でした。また、現役中に日本国籍を取得して引退後も協会に残り、部屋の看板をかけたのも高見山が第一号でした。


曙は、同じハワイ出身の親方の指導をよく守り、真面目に稽古に取り組み、また日本語の勉強も熱心でした。曙が入門した翌年、大阪場所で東関部屋の宿舎だった寺で、若き曙と会ったときのことが忘れられません。その時はNHK制作の国際放送番組の取材だったこともあり、通訳を用意していったのですが、彼は日本語でこう言ったのです。「片言でも自分の言葉で、日本語で話したいので、通訳はいりません」


この言葉に私は胸を打たれ、大いに感心しました。彼がいかに早く日本にとけ込もうとがんばっていたか、という事の現れだと思います。その後、努力の甲斐あって貴乃花を上回る勢いで番付を上げ、平成5年初場所後には横綱まで上り詰めました。また外国出身力士としては初めての横綱誕生で、当時としては大変な快挙でした。


ところが、曙の横綱昇進を祝うその日に、貴ノ花が宮沢りえさんとの婚約を解消したとのニュースが流れ、運悪く記者会見が重なってしまいました。マスコミが貴ノ花側に集中してしまい、曙のお祝いムードが霞んでしまったのです。


慣れない日本で見事横綱を勝ち取った実力者として、もっと評価されてしかるべきなのですが、同期の若貴兄弟の異常ともいえる人気に押されてしまったという、気の毒な点があったことも事実です。しかし、平成13年初場所後に引退するまでに10回の優勝を果たし、横綱として立派に角界を支えたというのは間違いのないことです。


平成11年以降、ケガや病気が相次ぎ休場がちだった貴乃花は、平成13年の初場所で14場所ぶりに21度目の優勝を飾りました。曙が引退してしまい、ファンは強い貴乃花の復活と土俵の盛り上がりを期待しました。その声に応えるように、夏場所では右膝のケガを抱えながら横綱武蔵丸との決定戦をものにし、奇跡の22回目の優勝を果たします。表彰式で小泉純一郎首相(当時)が「痛みに耐えてよく頑張った!感動した!」と祝福した、あの優勝です。


しかし、14日目の取組で右膝を痛めたまま、千秋楽の本割・決定戦と強行出場したことがたたって、翌名古屋場所から7場所連続の長期休場を余儀なくされてしまうのです。その後、平成15年初場所で引退となり、右膝の痛みと引き換えに勝ち取った平成13年夏場所の優勝が、結局貴乃花最後の優勝となったのでした。


人気の横綱たちが相次いで土俵を去ることになり、その穴を埋めるように綱を張っていたのが、ハワイ出身の武蔵丸でした。平成11年夏場所後に横綱に昇進し、名古屋場所では新横綱として土俵入りを披露しました。この時のことは、まだファンの記憶に新しいのではないでしょうか。


勝負の世界は、層が厚い時期とそうでない時期が、波のように交互に訪れるのが常です。後を託された武蔵丸が孤軍奮闘していた時、間隙を縫うように朝青龍が登場するのです。朝青龍の台頭とその後の時代については、次回の最終回にお話ししましょう。


杉山邦博の土俵を見つめて60年 名古屋場所60周年記念特別編


2017年7月8日









次が最終回になりますわ、、


皆さん明日もエエ日を🛐🛐🛐



【大相撲ブログ334号】