世間の皆さんおはよーさん、、


大相撲の話題が薄いね、各部屋各地での合宿打ち上げて名古屋入りする時期でもあるが生田目と嘉陽の本場所用の締め込み披露ぐらいしか話しがない。新調した締め込みは固いから馴染ませんと違和感あって相撲取りにくいから締めるんやがもっと他にないのかな?


照ノ富士の後援会長の画像が『X』で少し話題になっていたが、、、関連付けてあそこは某教会か?なんて妄想もあったがいささかそれは勘ぐり過ぎでありえへん。長く伊勢ヶ濱は天理教さんの施設利用して名古屋も大阪もそうやし、大阪の時は天理市を訪問して土俵入りなんかもしとる。各部屋神社仏閣で宿舎を構えるのはそれなりにゆかりや繋がりがあるからね。ただ、時期とタイミングによっては政治家との付き合い露出はいらぬハレーションを起こすから気をつけんとデメリットの方が大きくなるのは間違いない。


それでは、杉山邦博さんのコラムの続きを、、、


❖第四話 千代の富士時代

 

昭和56年1月場所に貴ノ花、続く3月大阪場所では輪島が引退して、北の湖が孤塁を守ると思われた年、千代の富士が颯爽と登場しました。


大型力士時代になっていた角界で、182センチ・120キロと決して大きい身体ではない千代の富士が、ウルフスペシャルといわれた左上手投げや、スピードあふれる立合い一気の直線の寄り切りで大型力士を次々と破り、ファンの溜飲を下げました。


昭和56年1月、北の湖を決定戦で破り初優勝して大関に昇進するや、それからわずか3場所目の名古屋でも北の湖を破り自身2度目の優勝を決め、場所後には横綱に昇進して喝采を浴びました。こんなに早い綱取りの例は、その後ありません。


その千代の富士も、当時としては小兵故に短命ではないかと囁かれ、新横綱の秋場所をケガのため休場を余儀なくされたことによって、その声がますますかまびすしくなりました。生来強気の彼が、そういった風評を吹き飛ばしたのが昭和56年九州場所でした。千秋楽、当時小結の朝潮を優勝決定戦の末破り、横綱として初めて、通算では3回目の優勝を決めてみせたのです。


優勝を決めた直後のインタビューではぼうだの涙を拭いもせず、喜びを露わにした姿が今も目に焼き付いています。横綱としての責任を果たさなければ、という想いがいかに強かったかを物語る光景でした。


その後、北の湖がまる3年横綱を努め、その間2回の優勝もありましたが休場がちで精彩を欠くようになり、この昭和56年を境に、千代の富士によって世代交代がなされたことは間違いありません。


千代の富士について唯一残念に思うことは、これまでお話ししてきた「栃若」「柏鵬」「輪湖」の各時代のように、並び称される横綱がほとんどいなかった事です。そのなかで、双羽黒(北尾)が不祥事で早々と角界を去ったこと。隆の里が横綱となり、千代の富士の好敵手と目されながら、糖尿などのため短命に終わったことが悔やまれます。もしこの2人がもっと長く、元気に土俵を務めていれば、千代の富士自身もより強くなっていたのでは、と思われて残念でなりません。


名古屋場所での成績は、前述の横綱昇進を決めた昭和56年の優勝をはじめ、翌57年、61年~平成元年の毎年と、計6回の優勝があります。そのなかで忘れがたいのは平成元年、弟弟子北勝海との史上初・同部屋横綱同士の決定戦を制しての優勝でした。そしてこの優勝には、弟弟子との決定戦ということ以外にもいくつかの背景があったのです。


さかのぼって平成元年3月の大阪場所14日目、これを勝てば千代の富士が優勝という場面で対戦相手は横綱大乃国。2月に生まれたばかりの三女のためにもと優勝に燃えていた千代の富士は、怪我防止のため封印していた得意の左上手投げを連発して大乃国を下し、愛娘を抱いて賜杯とともに記念写真に収まりました。ところがこの時の無理な投げがたたって左肩を脱臼し、5月場所は全休を余儀なくされます。


なぜ、無理をして自ら禁じた左上手投げを打ったのか。千代の富士は、前年の昭和63年5月場所7日目から53連勝しており、当時は往年の大横綱・双葉山の大記録69連勝に次ぐ記録。どこまで伸びるかと思われたこの連勝記録を11月の九州場所千秋楽で止めたのが、実は大乃国だったのでした。そんな因縁の相手だったことが、自ら封印した左上手投げを使ってでも勝たなければと、千代の富士の負けん気に火をつけた一因かもしれません。


そして全盛期を過ぎていたこともあり、肩の大怪我と5月場所休場を受けて、再び引退説がささやかれるようになります。それを振り払い名古屋場所へ向けての稽古を再開しようかという時、幼い三女が乳幼児突然死症候群で亡くなってしまったのです。


度重なる苦境にさすがの大横綱も耐えられないのではと、周囲は名古屋場所の休場を勧めましたが「家族のためにも」と本人は出場に踏み切ります。愛知県体育館へは数珠を首からかけて通いました。


そうした様々な出来事を抱えて迎えた千秋楽・優勝決定戦。本来右四つの千代の富士が、北勝海を左四つに組み止めての右上手投げで豪快に転がし、見下ろした気迫の形相が今でも目に焼き付いています。そしてケガと闘い、愛娘を失った悲しみを乗り越えて掴んだ強い横綱・父親としての姿がファンの涙を誘ったのでした。


その後の秋場所で、千代の富士は当時史上最多の通算965勝の勝ち星を挙げ、場所後に角界初の国民栄誉賞を受賞しました。通算優勝回数は31回を誇りますが、様々な意味で、私としては平成元年名古屋場所のドラマチックな優勝がひときわ印象深く残っています。


千代の富士の横綱在位中、前述した双羽黒、隆の里をはじめ、弟弟子の北勝海、大乃国、旭富士らが横綱となり、土俵を盛り上げたことも忘れてはいけません。昭和から平成への相撲界の流れを回顧するとき、平成3年5月場所での千代の富士-貴花田(当時)戦が大きな節目として語り継がれていますが、若貴兄弟の台頭によって千代の富士時代~若貴フィーバーの流れができ、世代交代がなされた、と見て間違いありません。


昭和から平成へ、小さな大横綱千代の富士は、昭和最後の大横綱であったと同時に、平成の貴乃花らへの橋渡し役も果たしたのでした。バトンを受けた若貴兄弟の台頭とライバル力士たちの活躍は、また次回にご紹介しましょう。


さて、少し話は変わりますが、7月に入るとまもなく名古屋場所が始まります。実は、思いがけない力士が活躍するという点で、名古屋場所は「荒れる」と有名な場所なのです。昭和38年の大関北葉山、昭和39年の平幕富士錦、昭和44年の新大関清国、平成4年の平幕水戸泉など、場所前には優勝候補に挙がらなかった伏兵が賜杯をさらってゆきました。なかでも昭和50年、輪湖時代のさなかに名古屋場所を制した平幕・金剛の優勝は忘れられません。


前述したとおり、もともと「荒れる」といわれる名古屋場所ですが、当時、輪湖時代が始まったばかりで“さあこれから”というときに、横綱北の湖から金星をあげた金剛が、そのままの勢いで実際に優勝してしまったのには誰もがあっと驚きました。


金剛という男は「力士は寡黙だ」といわれていた当時、非常に饒舌でマスコミを喜ばせた力士でした。有名な金剛のコメントに「ナポレオンの睡眠時間が4時間なら、金剛は2時間で十分だ」というのがありますが、この時は土俵の快進撃に合わせて、大口ぶりもますます加速。場所後半になると「半田までパレードで手を振るのはくたびれるから、自動手振機でも発明するか」と、優勝宣言も飛び出しました。


こんな風に支度部屋で軽口をたたき、以前から「ほら吹き金剛」というあだ名までついていた金剛。彼は二所ノ関部屋の所属で、先輩力士にはあの大横綱大鵬や、大関大麒麟がいました。面白おかしく取材に答えるのも、大鵬や大麒麟の引退後、少し静かになった部屋を盛り上げようとの思いがあったのかもしれません。


千秋楽で、それまで対戦成績3連敗中だった鷲羽山を右上手投げで破り優勝を決めると、取り囲んだ取材陣に向かい“ほら吹き”の“ほら”にかけて、「ほら、見たことか!」と得意げに言い放ち笑いを誘いました。


杉山邦博の土俵を見つめて60年 名古屋場所60周年記念特別編


2017年6月28日

◇泣きの杉山 泣かせの杉山



【昭和50年3月場所、貴ノ花1敗、北の湖2敗。星一つ 先行する貴ノ花は本割で敗れたが優勝決定戦を制した。 大関になって15場所目、貴ノ花は悲願の初優勝を飾った のである。「貴ノ花優勝、初優勝、悲願の初優勝です」と 杉山アナウンサーは絶叫したがその声も聞こえないほど 館内は熱狂。座布団が天井高く飛び交い、北の湖は「引 き揚げるとき天井が見えなかった」と漏らした。師匠で あり兄の二子山審判部副部長から優勝旗が授与。末弟の 貴ノ花は体も細く入門を反対されたが、やっと兄の許し を得たとき、『今日からは、兄でも弟でもない。勝負師は 喜怒哀楽を表に出してはいけない。涙など決して見せて はいけない』と言いわたされた。貴ノ花はその言い付け 守り涙をこらえて顔を上げないまま師匠の二子山審判部 副部長から優勝旗を受けた。


そして5年余りを経た昭和56年1月場所7日目、大関貴 ノ花の引退を伝えた杉山アナウンサーは、「大関貴ノ花、 ありが・・・・・・」と、「ありがとう」を言えぬまま絶句した。


「何と厳しい相撲の世界、何と切ない師弟(兄弟)関係 なのか」と杉山氏は初優勝の光景を思い感涙にむせんだ のだった。週刊誌に「NHKアナも泣いた大関・貴ノ花の 引退」という見出しが躍った。それ以来「泣きの杉山、 泣かせの杉山」と言われ、人情アナの代名詞になった】




昭和64年 名古屋場所 千代の富士




次回に続きますわ、、

皆さん今日もエエ日を🛐🛐🛐


【大相撲ブログ第333号】