世間の皆さんこんばんは、、


今日は、貴景勝と有希奈さんの2月の結婚式の様子が女性誌のウエブに掲載されてましたが、ホンマ美しい、、これからの人生幸多かれと改めて祈ります。


しかし貴景勝の人気は凄いね。激励会応援団でポストしたら瞬く間にインプレッションが6万を超えました。ビッくらポンですわ(笑)



https://www.25ans.jp/wedding/report/g61001152/yukina-wedding-240626-vc/


詳細は↓

 

 


さて、ワシの性格は自己分析するととにかくせっかち、思い浮かんだらそく動く。なんでもそうやがしっかり確認して大丈夫やと思うていても何かしら見落としがあってツメが甘い。やからないはずの誤字脱字が必ずある。


執着心も強いが諦めも早い。昔の事はよう覚えとるがさっきの事は直ぐ忘れる。(笑)


過去に地獄めぐりをした体験があるからある種、人生を達観した部分もある。『なるようにしかならん』『明日には明日の風邪が吹く』、今紹介させてもうとる杉山邦博さんの名古屋場所の思い出話しもとかく忘れがちな良き昭和の大相撲を縁のある方々に少しでも思い出して欲しいな~とただ単に急いで投稿しとるだけなんやが、お付き合い頂き大きにです。


今回は、第三話ですわ。


❖第三回 輪湖時代


 

さて、前回の続きをお話しましょう。


北の富士と玉の海による「北玉時代」が幻となってどうなることかと心配されましたが、貴ノ花、輪島、北の湖の急成長で、再び土俵が大きく注目されることになりました。大鵬引退の翌年、昭和47年秋場所後に貴ノ花と輪島がそろって大関に昇進し、北の湖がすぐ後を追うように幕内上位から三役へ進出して、この3力士を巡って目の離せない場所が続きました。


輪島は日大相撲部出身で、学生横綱のタイトルを引っさげて鳴り物入りで角界入りしました。昭和45年1月に初土俵を踏み、入門直後はなんとパンチパーマ姿だったという破天荒ぶりでしたが、約2年半で大関に上がり、さらに1年後の昭和48年には新横綱として名古屋場所を迎えました。


 大器として注目され、本人も周囲の期待に応えて大変なスピード出世を果たしたので、師匠の花籠親方も輪島だけは別格扱いでした。独身者は普通は所属部屋で過ごすのですが、名古屋場所の際には宿舎ではなく高級ホテルに宿泊し、リンカーンで場所入りするなど周囲をあっと驚かせました。


しかし、その型破りな点だけが輪島の魅力ではありません。ときに迷言も飛び出す、おおらかで憎めない人柄と、金色の締め込みで左下手投げを炸裂させる「黄金の左」と呼ばれた取り口で唯一無二の横綱像を作り上げ、大鵬が去った後の相撲界をけん引する、新時代の象徴として一世を風靡したのです。


北の湖は昭和49年初場所に関脇で初優勝を飾り、場所後大関に昇進すると、春場所では10勝。続く5月場所は13勝で優勝し、次の名古屋が早くも綱取り場所とされました。この頃まだ21歳だった北の湖は場所ごとに強さを増していくようで、「北の怪童」と呼ばれ大きな期待をあつめました。


そんななか迎えた昭和49年名古屋場所千秋楽での両者の対決は、輪島と北の湖の土俵を語る上で最も印象深いものです。14日目終了時点で輪島12勝、北の湖13勝で千秋楽結びの一番を迎え、ここで北の湖が勝てば2場所連続優勝、横綱昇進間違いなしという場面でした。


しかし、この場所直前に琴桜、場所序盤に北の富士と続けて横綱が引退するなか、一人横綱として綱を張っていた当時26歳の輪島が意地を見せました。まずは本割、勝負を急いだ北の湖を「黄金の左」と呼ばれた下手投げで下し、続く優勝決定戦でも同じ左からの下手投げを決め、劇的な逆転優勝を果たしたのです。


惜しくも優勝をのがした北の湖でしたが、将来的に角界を背負うこと間違い無しとの声に押され、横綱に推挙されました。この時、故郷・北海道の母親に電話をかけて「ほんまに横綱になったんや 母ちゃん」と語ったいう、若者らしく微笑ましいエピソードがあり、その言葉を刻んだ碑が、名古屋市熱田区の白鳥山法持寺に残されています。こうして史上最年少で第55代横綱北の湖が誕生し、「輪湖時代」が本格的に幕を開けたのです。


輪島と北の湖は取り口が同じ左の相四つなのですが、輪島は左下手を引いての投げ、北の湖はまわしを取り、胸を合わせて寄るのが持ち味でした。しかし、先程触れた昭和49年の名古屋場所に象徴されるように、若い頃の北の湖は性格的に我慢が足りず、まわしを十分に引けないままに、大きな身体にまかせて前に出ようとするクセがありました。輪島はそのクセをよく見抜いていて、それを待ってましたとばかりに左からの下手投げで何度も逆転したのです。他の力士には勝てても、輪島には中途半端な体勢の寄りは通用しません。


これを反省した北の湖はまわしを十分引きつけるまで我慢するようになりました。有利な体勢で寄り切る相撲に進化することで苦手を克服し、横綱として大成することができたのです。もし若い頃の慌てグセがなければ、24回どころかもっと何度も優勝を重ねていたに違いありません。そういった意味で、憎らしいくらいに強いとまで言われた横綱北の湖の相撲は、ライバル横綱輪島との対戦の中で完成されていったと言っても過言ではないでしょう。


「輪湖時代」と言われるなか、この頃の力士で忘れてはならないのが、角界のプリンスとうたわれた初代貴ノ花の存在です。この連載の初回でご紹介した若乃花の末弟にして、若貴兄弟の父であり師匠でもあった人です。


冒頭で「輪島とそろって大関に昇進」と述べましたが、貴ノ花の初土俵は輪島よりも5年早く、中学を卒業して間もない昭和40年の5月場所でした。しかし中学時代の彼は水泳部で大活躍、将来はメキシコオリンピックへの出場間違いなしと言われ、バタフライでのメダルも期待されるほどの選手でした。


ですから、本人が角界入りを熱望しても、兄・若乃花をはじめ周囲は反対しました。10人兄弟の末っ子だった貴ノ花は、兄の若乃花とは22歳も離れており、ましてや若乃花は「栃若時代」を築いた人気絶頂の大横綱でした。甘やかされて育った末の弟が、厳しいプロの世界で成功するわけがない、それよりも、水泳でオリンピックを目指すべきだ、と猛反対されたのです。


そんな貴ノ花の角界入りが決まったのは、母親が兄であり師匠でもある若乃花(当時は二子山親方)を説得してくれたからです。貴ノ花は、兄の二子山部屋に入門するにあたって言われた「今日からは兄でも弟でもない、師匠と弟子の間柄だ、そのつもりでやれ」という言葉を肝に銘じて過ごしたといいます。二子山親方も“土俵の鬼”と言われた若乃花その人ですから、実の弟だからとて容赦せず、一層厳しく鍛えたのです。


猛稽古の甲斐あって貴ノ花は順調に番付を上げ、若くして幕内上位を賑わせるようになりました。しかしどれだけ稽古しても100キロあたりから体重が増えず、結果、後から入ってきた輪島や北の湖に番付を抜かれることとなります。


ライバル関係にあった3人ですが、土俵を離れた貴ノ花と輪島は大親友でした。輪島は入門前の日大相撲部時代に、相撲部寮の目の前にあった花籠部屋へ度々稽古に出かけていました。そこへ、十両に上がったばかりの貴ノ花も出稽古に通っていたのです。大学生の輪島が何番か貴ノ花を負かしてしまい、貴ノ花の師匠の二子山親方が「黒まわしにしろ」と、鬼の形相で叱りつけたといいます。十両以上でないと白まわしは締められませんから、学生に負けるなど十両失格だと叱ったわけです。


その時から貴ノ花と輪島は親友になりました。2歳年上で性格もおおらかで兄貴肌だった輪島と、10人兄弟の末っ子だった貴ノ花とは随分気があったようです。大学生の輪島が国技館前で貴ノ花の相撲が終わるのを待っていて、そこから一緒に食事に出かけたりもしました。輪島が花籠部屋へ入門してからも、二子山部屋とは同じ二所ノ関一門ですから、親友として、またライバルとしてお互いを意識し合いながら切磋琢磨していった、というわけです。


この2人の対戦で忘れられないのは、関脇同士で水入りの大相撲を繰り広げた昭和47年秋場所、千秋楽の一番です。結果的には輪島が勝ち、人気力士同士の大熱戦にファンは大喜びでした。全勝の横綱北の富士が優勝したのですが、輪島が13勝2敗で殊勲賞、貴ノ花は10勝5敗で敢闘賞を受賞し好成績で場所を終え、若い2人のさらなる活躍を期待する機運が大いに盛り上がったところで、場所後に2人揃って大関に昇進したのです。


貴ノ花の大関在位50場所という記録は当時の1位記録でした(現在は千代大海、魁皇の65場所に次ぐ2位)。大関として絶大な人気を誇るなか、昭和50年の3月と9月に優勝を飾りましたが、横綱昇進の条件を満たせず、“悲劇の大関”といわれながらついに綱には届かないまま土俵を去りました。


それが昭和56年初場所、奇しくも関脇千代の富士にとって初優勝の場所でした。続く3月場所では輪島が引退を表明。横綱北の湖は健在でしたが、当時もう一人綱を張っていた二代目若乃花は休場がちで、時代は再び新世代の台頭を待つこととなります。


そんななか番付を上げていった若き千代の富士の活躍については、また次回にご紹介いたしましょう。


杉山邦博の土俵を見つめて60年 名古屋場所60周年記念特別編

2017年6月9日



https://conex-eco.co.jp/special-feature/71421/


◇旧三保ヶ関部屋宿舎『白鳥山法持寺』

 名古屋市熱田区