地震が来るまで、結構マメにブログを書いてた。
地震が来て、それからは、ツイッターやFBに移行していた。
久しぶりに、ブログを読み返した。
飾らない、本心の独り言があった。
だから、たまに書いてみよう。本心。独り言。
もうすぐ、祖母の命日だ。
3・10
祖母が亡くなったと聞いたとき、後輩と飲んでいた。
恥ずかしい位に、後輩の前で泣いた。
涙が止まらなかった。
翌日、最低限の仕事をこなし、イベントに出れなくなったことをみんなに挨拶していたら、
あの地震が来た。
あんなに大きい地震なのに、東京が震源ではない。
まさか・・・の震源地が地元。
TVの中では、予想もしないことが起きていた。
津波に飲み込まれる人が、車が、映し出されてた。
聞こえるわけもないのに、『逃げて~早く!!!!!』といった。
聞こえないよね。どんどん流されていった。
親に、兄弟に、親戚に。
携帯にも、家にも電話をかけた。
つながらない。
本当に心配で心配でたまらなかった。
時間がたって、やっと皆と連絡が取れた。
新幹線に乗っていた従弟も無事だった。
でも、やはり地元は電話がつながらない時が多く、なかなかメールも届かなかった。
PCの充電が残っている間は、従妹とツイッターで連絡を取った。
携帯の充電無くなりそうで、危ないようだった。
従弟も、福島辺りで避難所にいたが、これも、充電が無くなる恐怖と戦っていた。
何人にも連絡している余裕がないので、従弟と親戚家族の連絡係になった。
ツイッターのDMは大活躍だった。
無事に39時間後従弟は家に着いた。
迎えの車も来ない、そんな中で、寒さと怒り、不安に震えた従弟は、実家に帰り、
相当きれたそうだ(笑)
暫くして、祖母が昨日亡くなっていて、良かったと思った。
92年も生きて、あんな地震で怖い思いをして欲しくなかったし、
もしも、あの地震が原因でなくなっていたら、悔しくてたまらない。
だから、そう思った。
その時から、いてもたってもいられなくなった。
とにかく、火葬される前の、おばあちゃんのままのおばあちゃんに会いたかった。
どうしても、それだけがしたかった。
でも、新幹線も、バスも、どれもこれも・・・手段がなかった。
忌引きと、土日だったので、家にいた。
余震も多く、不安だった。
どうしたらいいのかわからなかった。
友人の家に誘ってもらったりしたが、外に出るのが怖かった。
電車にも、乗りたくなかった。
家で、TVを観て情報収集していた。
ツイッターで、つぶやいたり、友人と励まし合ったりしていた。
みんな不安だから、つながっていることで安心していた。
そんな時地元が一緒の姉的友人から電話
『1人なの?』『実家大丈夫だった?』『なんでそんなに地元に帰りたいの?』と聞かれた。
『おばあちゃんが前の日に亡くなったんだ』と伝えた。
『え!?』と驚いた後、『明日夜に車で行こうと話してるから、そんとき一緒に行こう』と言ってくれた。
本当に、本当に、嬉しくて嬉しくて、泣いた。つながっていることに感謝した。
随分会っていない、昔からの友人からも電話が来た。
『帰るなら車だすよ』『友人も行ってくれるから行こうよ』と言ってくれた。
不安の中、人の温かさを感じた。感謝した。
そうして、地震から三日目の夜、物資を積んだマイクロで仙台へ向かった。
今度は水害・・・
今日は、東京も大変だった。
どうしても振替できない仕事で、終わったのが19:30
電車も動いたし、大丈夫!!なんて思ったのが大間違い。
駅でエスカレーターに乗ったら、なんと!!!!降りてもいる場所がない位の混み様・・・色々なところから罵倒する声等が聞こえてくる。
【これは危ない!!】と会社にGO!
仕事を再開し、一時間半。再度TRY!
今度はスムーズに電車に乗れたっ。と思ったのもつかの間、
なんと、二つ目の駅でSTOP。ここで30分停止。
いつもは15分の電車が、1時間(^_^;)つらいつらい帰宅でした。
帰り道、もう星空☆ほっとした。
でも、家に帰ってTVをつけると、東北の被害情報。
仮設住宅の避難指示と勧告。
いったい・・・どうしろというんだろう。
避難所から仮設へ移り、少しだけ落ち着いたりしてるのに。
将来や、仕事、金銭の不安と闘いながら頑張っているのに。
【神様はいるの?】とつぶやいている人の言葉をみて、涙した。
これ以上どうしろというのだろう。
いつになったら、安心した生活ができるのだろう。
明日、いつもの南三陸の仮設の人に電話してみよう。
保育所の所長さんにも電話してみよう。
皆さんが元気でいてくれるといいな。