最近は良いブログ書けないな。

じゃなくて、記事書けない。


結構最近は考えすぎをやめたんだけどなぁ。自分の本当の落ち着きの境地には遠いなぁ。今回の記事をちょっとファーブルのファンの人とか、ゲーテのファンの人にはちょっと無礼だなこいつって思われるかもしれんな。


内観というかさ、座禅というかさ、人間っていうのは可能性があるよね。僕は特にそう思うんです。


体の使い方が上手くなるだけでさ、悟りとかさ、開けるんだぜ。まぁ、多分そういうことだろうけど。


自然体に戻ることが悟りだと思ってるから。

人本来の役目というかさ。回帰だと思ってんだよ。


んまあ、その宗教的役割はともかくとして、人間というのはこういう風な無限な可能性がある。


まぁ、私は浅い知識しか持ってないけども。人間が優れたことをできるというのは、周知の事実であって、私だけではなくいろんな人が研究してますけど。


色んな人が色んな問題を抱えていろんな苦しみを味わっているだけじゃないのが、世の中なんだよね。


実は明るい話もある。


しかし、この世は自由じゃありません。これはゲーテが言ってたんですけど、最高の奴隷というのは自分が自由だと信じている奴隷なんですって。洗脳ですよね、洗脳されやすいんですよ。一番洗脳されやすい状態がこれってことです。世の中どっちかっていうと自由をものすごく強調してますけど、それ詐欺なんじゃないっすかってことよ。


まあ、自由って思うこと自体がもう、幻覚なんですね。この世は物理現象では魂やら命やらでもう形が決まって支配されてるじゃないっすか。これは自由とは言えませんよね。あくまでもそういったルールの下でしかない。自由と言ったところで、奴隷になるしかないんですね。むしろ自由じゃないと言い切ったところに真の自由があるといいますか。


現実を受け入れるということができるから、やっとスタートができるということなんですね。


いつもそうですよね、ああ、怪我をしたな、血が出てるな。これはネガティブでもなければポジティブでもない。でもやらなきゃいけないことはよくわかる。絆創膏を貼るんですよ。


だから、僕らは怪我をしないで済むわけであって。学習したから。現実を受け入れるってのは当たり前なんだよね


だから、いくら現実が来ようとまあ、それはそれなんですよ。


だから悟りとか言っていましたけど、仏様にも寿命はありますよ。確か無限には近いのかもしれないけど、普通に寿命ありますからね。宇宙が終わるよりは、はるかに長いですけど。終わりが来るなら相対的なものでしかない、つまり自由はないんです。と思うんですけど、どうなんですかね。

 

でもさ、ファーブルは言ってたんだよね。まぁ、ちょっと意味は違うんだけど。自由は秩序を作り、強制は無秩序を作るってね。でも俺は思うにだけどそれを突き詰めると、自由じゃない方がいいんだよな。自由じゃない=強制ではないんだよね。なぜなら、主体性を持って自分で決めてるから。な、何を言っているか、わからないかもしれないか。

自由じゃないっていうのは強制じゃないっていうのはやっぱり大事なんでね。ちょっと言葉はややこしいけど。俺の定義してる自由じゃないっていうのは、そこから逃げ出そうとする主体性みたいなもんで。自由でもなければ強制でもない。希望ってやつかな。


いや、てかさー、むしろ真の自由というのは自由じゃないと思うところが自由なのかもしれない。そう考えれば、ファーブルの理論も。子供の頃のファーブルの机の中、ぐっちゃぐちゃだったと思う。学校の勉強なんかそんなやらんかったろうし。でもさ、好きなことばっかやってたら結局その極みに到達するといつの間にか秩序立ってるんだよね。学者とかになってたりする。理論体系化して高度な計算とかもやって、虫の生息場所の地図とかも作って会社運営したり整理したり、ちゃんと大人やってたと思うよ。でも俺はその中でも自由じゃないっていう感覚が必要だなって。


ん。まあ感覚的な感じなんだよね。だって、主体性を持って自分自身の感覚でしたいって思って動いて周りと協調していればさ、なんか本当に自由な感じするじゃん。それをやるためには自由じゃないっていう現実を知るんだよね。これ、どういうこと?だから、ファーブルも正しいし、ゲーテも正しいし、世の中には希望があって、それを目指そうぜベイベーって感じです。なんだよ、ベイベーって。何か出ちゃいましたね。


まぁ、ファーブルを信頼してる訳ではないけど疑う気もないんでね。