私の苦手なこと

宗教団体はなぜわざわざ「勧誘」という行為をするのでしょうかね?


https://shuchi.php.co.jp/article/10800

世界各地で次々と起こる戦争、突如訪れる自然災害など、私たちは絶えずさまざまな不安にさらされています。この時代に、宗教は、どのような意味で人間を救うのでしょうか――聖心会のシスター鈴木とイエズス会の片柳神父が語りあいました。

よく「宗教があるから戦争になる」「戦争を起こすような宗教など、無い方がいい」という声を耳にします。私は、その考えは違うと思っています。「宗教があるから争いになる」のではなく、「争いのために宗教が利用されている」と思うのです。

何かとても大きな存在、神様やキリスト、あるいは仏様の前で、自分の限界に気がついて謙虚な心になるということが、宗教の出発点です。

仮に神様に出会ったとしても、自分は神様のことを全部知っているといような顔で、他の考えは間違っていると決めつけることはできません。神様は、人間が知り尽くせるほど小さなものではないからです。

何らかの宗教体験を通して自分が知ったわずかなことをすべてだと思い込み、相手は間違っていると決めつける。それが宗教の危険性です。どんなすごい体験をしたとしても、神様について自分が知っていることなんて、本当、これっぽっちです。

どんな宗教でも本物の信仰を生きている人は、他の宗教の悪口を言ったりしません。お互いの良いところを認め合い、お互いから学んでいくというのが自然だと思います。

はい、そうなんでしょうけれど、そういうの(以下)を「宗教」と結び付ける必要は、まったくないと思います。

  • 自分の限界に気がついて謙虚な心になること
  • 自分が知ったわずかなことをすべてだと思い込み、相手は間違っていると決めつけること
  • お互いの良いところを認め合い、お互いから学んでいくこと

こんなことは、当たり前のことですよね。


なぜ、私がこんなことで、わざわざ投稿するかと申しますと、私は、中学生・高校生と男子校の寮生活だったため、ある宗教団体へ強制的に入信させられました。

そして、「修行」と称し、以下のようなことを日常茶飯事で行わされました。

  • 毎朝5時からのお経
  • 真冬の朝3時からの水行・お経
  • 休み中の登山による各種修行

最初の頃、私はまだ12歳でしたから、宗教のことなど、まったく理解していませんでした。

先輩たちの言葉をすべて信用し、様々なことを真剣に真剣に祈りながら、毎日毎日お経をあげていました。

しかし、それらが実ったことなど、たったの一度もありません。

精神的・体力的な「鍛錬」としては、それなりに意味があったのかもしれません。

しかし、「功徳」なんていうものが積まれたという感覚は、一切ありませんでした。

また、「祖先崇拝」として、「先祖」を異様に大切に扱いますが、人間は死んだら終わりじゃないんでしょうかね?

なので、「神」の存在も、私はまったく信じていません。

まあ、この辺りのことは、あくまで「個人の自由」かと思います。


また、20代で離婚をした時、相手方の親戚から「●●教に入信すればなにもかも大丈夫」だなんてことを言われ、めちゃくちゃ辟易した記憶もあります。

とにもかくにも、「悩みがあるなら●●教に入信すれば大丈夫」なんていうのは、ただの「嘘っぱち」です。

いったいなぜ、宗教団体というのは、「勧誘」という行為をするのでしょうか?

何らかのメリット(政治とかさー)があるから、「勧誘」するんですよね?

そこが一番、「胡散臭い」わけです。

「勧誘」さえなければ、宗教の考え方は基本的に間違ってはいないと私は思いますし、入信したければ自分の意思ですればいいだけです。

♪忘れてたまるもんかよ!! 僕がボクじゃなくなったら たとえ生きてたって 生きてる意味すら 見つからんだろ♪

以上になります。


同じネタで投稿する

 

他の投稿ネタを確認する