おそまつ、東電

福島原発第1で5日、またまた、停電とか。3月18日に電源盤にネズミが入って、停電して大騒ぎしたばかりなのに、また同じような事故を起こしたそうだ。
まあ、それも仕方ないだろう。何しろ、東京電力という会社は、電気のことについては全くの「素人」の会社だから、責めるわけにもいかないだろう。電気のことはよくわからないので、どうなったら停電になるとか、あるいは停電になったらどうやったら復旧できるか知らなくても当然だろう???

とまれ、冗談は顔だけにしてくれと言いたい。ふざけている場合ではない。

電気のプロ中のプロ。その会社が停電の原因を丸一日も突き止められなかった。かと思えば、またまた同じミスを引き起こした。これが、笑いごとで済まされるわけがない。
まさか、「日本には、いや福島にはネズミはいないものだと思ってました」なんて言うわけでもなかろうに。

ヘビが電線に絡まったりして、停電になることもある。先日は何かの鳥が巣を作るためにくわえてきた針金が電線に引っかかり停電したこともあると聞いた。ネズミの一件だって、当然想定することは、中学生にだってできるのではないだろうか?

問題は、このような停電が長引けば、24時間絶えず冷却を続けていかなければならない使用済みの核燃料棒の冷却装置がストップすることにある。そうなると、またもや高濃度の放射能を広範囲にまき散らすことになり、さらにはその使用済みの燃料棒格納プールに近づくことすらできなくなるかもしれない。
そうなると、関東一円に汚染は広がるかもしれない。

ことほど左様に今回の事件は重大な問題をさらけ出した。
安全だ安全だと宣伝しながら、たかだかネズミ一匹のために、何百万人にも及ぶ人間の生活が脅かされる可能性があるということだ。すなわち、原子力発電所の恐ろしい欠点である。科学の粋を集めて、人間社会に大いに貢献すると言いながら、実はまことに単純なところに恐ろしい欠陥を持っていることが証明されたとも言えるだろう。それでも、原発を推進したいというのは、いったいなぜだろう?
3月23日
桜の便りが、あちこちから聞こえてくる。なんでも、昭和28年とかの観測史上、初めての早い開花だとか。
まあ、遅い早いはともかくとして、花の便りには心が躍りウキウキするものである。
昔から、花鳥風月を愛するのが、日本人の粋なところだとか。
こんな四季折々の楽しみ方ができる日本の自然風土を、放射能のゴミで汚染していいものだろうか?

前回までにそんなことを書いてきたが、どうも日本人は淡泊すぎる。
すなわち、一言で言えば、「忘れやすい」民族であるということだ。
良く言えば、柔軟性があり寛容であるということだろう。あるいは、環境順応性が高い民族であるということでもある。しかし、悪く言えば、節操がなく軽薄である。首尾一貫して徹底することを嫌う民族だということでもある。

いい例が、太平洋戦争時のことだ。
鬼畜米英と言って、アメリカやイギリスを目の敵にしていたはずだ。学校においても、間違っても米英の民主主義のことを褒めたりしたら、即、アカのレッテルを貼られて、地域社会で暮らしていくことが困難であったはずだ。ところが、敗戦と同時に、昨日までの過激な非難の相手を、喜々として受け入れ、民主主義を礼賛し、欧米文化を恥ずかしげもなく受け入れて、そして今日になってきた。
きのうまで、さんざん非難して竹槍を用いて女まで戦い徹底抗戦を叫び、訓練していた日本人が、何のためらいもなくあっという間にそれまでのことをきれいに忘れ、シッポを振って米英を受け入れほめたたえた。これぞ、日本人の健忘症の最たる証明であろう。

これに対して、ユダヤ人は日本人の対極にいると思う。
彼らは、60年以上もたった今でも、ナチスを決して許さない。そして、世界の果てまで、ナチスの戦犯を追い続けている。10年くらい前だと思うが、アルゼンチンでその一人が捕まった。このしつこさには、ほとほと呆れてしまうほどだ。

よく言われる、肉食文化と草食文化の違いと言えばそれまでかも知れないが、それにしても日本人の忘れやすさは、重大な欠点だと思う。
ユダヤ人と同じくらい「しつこくなれ」とは言わないが、忘れてならないことは忘れてはいけない。
原発事故から、たかだか二年。
花見に浮かれて、そんなこともあったけくらいにしか見ていない風潮が日本社会に拡散していっているように思えて仕方がない。
原発事故のことは、絶対に忘れてはならない。


3月10日
明日は東日本大震災の日。そして、福島原発の事故の日でもある。
事故当初、反原発や原発運転停止の声が高かったが、わずか二年しかたたないのに、それらの声や運動が急速にしぼんでいっているように思える。後で書くが、日本人の忘れやすさがおおいに影響しているようだ。

ところで、絶対に忘れてならないことは、去年の夏。そして、今年の寒かった冬。
停電は一回も起きていないということだ!!!
東京電力管内では、原発は一基も動いていないのに!
つまり、原発が稼働しなくても、人々の社会生活は営んでいけるということが証明されているわけだ。

にもかかわらず、一旦事故を起こせば、とんでもなく危険な原発を動かしたいという人達の主張するところは、安い電力が手に入るからということにある。
ところが、アメリカ連邦政府の試算では、原発が一番高くつくということになっている。
あるブロガーの記事の一部を紹介させてもらう。
この記事は、本年1月30日に、アメリカの世界的に有名で権威ある、WALL STREET JOURNALに掲載されたものである。

タイトルは   米国で原発の閉鎖相次ぐー天然ガス価格急落でコスト逆転

1950年代には、原子力発電は安価な電力の供給源と期待された。しかし現在、米国の電力会社は予想もしなかった事態に直面している。一部の天然ガスの発電所では発電コストが原発よりも安くなっているのだ。このため、発電会社の中には原発の閉鎖を考えるところも出てきている。

(中略)

エクセロンも、ニュウージャージー州オイスタークリーク原発を、運転許可の失効まで10年を残して、19年に閉鎖する計画だ。・・・

連邦政府の試算によると、エネルギー源別の発電の固定費用は天然ガスがメガワットあたり約1万5000ドルで、石炭が3万ドル、原発が9万ドルとなっている。原発はこのほか警備費用がかさみ、放射性物質を扱うため装置導入コストも高くなる。
(記者は REBECCA SMITH)

と、まあこのような記事である。
原発による電気代は安いという日本政府。高くつくというアメリカ政府。
あなたは、どちらを信じますか?
3月3日
今日は桃の節句。
あかりをつけましょ ぼんぼりに お花をあげましょ 桃の花・・・

サトウハチロウの作詞によるものだとか。
いずれにしても、春夏秋冬。日本の四季はとても美しいと思う。諸外国のことは知らないが、季節の変化がきれいに分かれ、その折々の自然の美しさ。春の花々。梅の花、菜の花、桜。初夏の山々を包む目に優しい新緑。真夏の山や川に海。秋は菊の花に、山々に錦を飾る紅葉。冬のすがすがしい雪山。
いずれをとっても、日本に生まれて育ち、良かったなあと思っている。

古来、日本のこのような美しさは、和歌や短歌等々にもたくさん読み込まれている。
すなわち、何千年にもわたって、親から子へ、そしてその孫へと繰り返し繰り返し、ずっと美しいまま受け継がれてきた。それが人間の歴史であるはずだ。

しかし、現代の我々はこのだいじなだいじなリレーを破壊しようとしたり、断ち切ろうとしたりしているかのようだ。たとえば、石油文明がその一つである。海や川や道路沿いにまき散らされている、プラスチックやビニール製品。化学者でない私にはわからいが、これらの製品は自然に腐ったり溶けたりして無くなっていく物ではないと思う。
あるいは、タイヤなどのゴム製品などもそうであろう。
かって、木と鉄を主要な文明の利器にしていた時代には、自然界の中でリサイクルが時間とともに円滑に行われてきていた。それが、石油文明の進展とともに、怪しくなってきている。

このような時代の流れの中で、極めて最悪の文明の利器が原子力の利用である。
先に述べた美しい福島の故郷に、住むことも帰ることもできない大勢の人がいる。この状態が、後何年続くか、いや何十年続くか誰にもわからないだろう。
すなわち、ひとたび事故を起こせば、美しい故郷や山河は人の住めない所になるのである。たとえ、事故を起こさないにしても、製品を作りました。その後に出るゴミの処理方法は知りません。
しかも、そのゴミこそが危険極まりの無いゴミであるのに。
それこそ、福島どころではない。日本国全域で人間が住むのに適さない地域になってしまうかもしれない。

何千年にもわたって、先祖代々受け継いできた大切な美しい自然。そこに人が住めなくなるかもしれないような現代社会のありかた。そこまでのリスクを冒してでも、原発を推進していきたいという人たちに聞きたい。

貴方たちはご先祖様に何と申し開きができますか?
国、破れて山河あり
そんなことにして、自分たちの子孫に何と言い訳できますか?

2月18日
原発稼働による使用済み核燃料棒問題。この問題がいまだに解決されていない。

原発の稼働の結果のゴミ。これは自動車の排気ガスと同じようなもの。
しかし、こちらのゴミはめちゃくちゃ恐ろしい。排気ガスどころの話ではない。
前回も触れたが、もしも福島で使用済み燃料棒がメルトダウンしていたら、現在の日本人の暮らしは、ほとんど成り立っていなかっただろう。何しろ、二千万人から三千万人の人間が避難しなければならなかったかもしれないと言われているからだ。
だいたい、そんな膨大な人数をどこにどうやって連れて行って、新しく衣食住を満たす生活をさせることができるというのだろう?どこにそんな、施設やスペースがあるというのだろうか?
よしんば、その十分の一の三百万人だとしても、それを日本国全体でどうやって支えていけるのだろうか?

この使用済み燃料棒を安全なものに再処理するための、六ケ所村の再処理工場が稼働できないというのだから、ひどい話である。早い話、ご飯は食べました。トイレはありません。糞尿はそこいらに垂れ流してくださいというのに似た話だ。
後始末もできないくせに、ご飯だけはどんどん食べて、快適に過ごしたい。だけど、ウンコ等はそこいらに山積みという無責任極まりない話である。どうしても原発をやりたければ、きちんと、核ゴミの最終処理をできるめどを確立してから、原発は動かすべきだ。子供が考えてもわかる理屈ではないだろうか?

この再処理施設やその立地の問題点を専門家が厳しく糾弾している。
 最悪の核施設  六ケ所再処理工場   小出裕章他著  集英社新書
この本を読むと、六ケ所村にある使用済み核燃料がメルトダウンを起こすと、ほぼ東日本全域で人が住むのに適さなくなるそうである。この再処理施設は活断層の上にあるという説が有力である。それが事実かどうかはさて置くとしても、そのような疑いのある場所に造られていることが問題だろう。
日本中の原発から集めてきた使用済み燃料棒が危険な場所に、最終処理をできないまま蓄積されている。
確かに、事故が起きなければいいかもしれない。しかし、このままではどこまでいっても、原発ゴミそのものは消えてなくならないし、再稼働すればゴミはますます増えていく。

そして、10年後か20年後か知らないが、いつの日にか又、天災が起きるかもしれない。その時、これらの核ゴミが日本を滅ぼさないと言い切れるだろうか?ここに、その恐ろしさがある。
2月16日
今週の日曜日、NHKスペシャルで放映されたので、見た方も多いと思う。
NHKの番組紹介文をそのまま以下に書いておく。

3つの建屋が爆発した、福島第一原子力発電所の事故。原子炉とともに危機的な状況に陥ったのが、莫大な放射能を持つ使用済み核燃料の貯蔵プールだった。原子炉の稼働によって生じる使用済み核燃料は、全国の原発などに貯蔵され、その量は1万7千トンに達している。国が、使用済み核燃料を資源として貯蔵・再利用する、核燃料サイクルを推進してきたためだ。しかし、サイクルの要となる青森県六ケ所村再処理工場は、トラブルの連続で操業開始を延期し続け、高速増殖炉「もんじゅ」も、1995年の事故以来、ほとんど動いていない。さらに、再処理に伴って生じる高レベル放射性廃棄物を埋設処分する場所も決まっていない。(以下略)

どちらかというと、政府寄りのお堅いあのNHKがこのような番組を日曜日の午後9時のゴールデンタイムに流したことの意味は重大である。
あの事故以来、かれこれ二年になろうとしている。世間一般では、あの危機的な恐ろしかった状況がややもすれば忘れられようとしているかに見える。
むしろ国民の関心は、尖閣問題やアベノミクスなどということに移っていっているかのようだ。
これは実に困ったことだ。日本民族の特性が、ここでもいかんなく発揮されていると私は言いたい。日本人は、とにかく熱しやすくさめやすい。太平洋戦争の経験しかり。原爆に対する反省しかり。消費税反対運動もしかり。その他、枚挙に困らないほどだ。
一時的に、大声で反対反対などと大騒ぎするが、何年もしないうちに、そんなことがあったのかくらいの意識になってしまう。これは、非常に困った国民性だと思う。

先に書いた使用済み核燃料がメルトダウンしていたら、東京圏にも人間は住めなくなっていたかもしれないと言われるほどの事態に、なりつつあったというのに。たまたま、何とか危機を乗り越えられたから良かったようなものを、こんなに簡単に忘れていいものだろうか?
同時に、もう事故は起きないというような前提で、原発再稼働が首相の口からも出ているが、ほんとうにそれでいいのだろうか?
2月5日

少年易老学難成  少年老い易く学成り難し
一寸光陰不可軽  一寸の光陰軽んずべからず
未覚池塘春草夢  未だ覚めず池塘春草の夢
階前梧葉己秋声  階前の梧葉すでに秋声たり

 いまさら解説のいらない漢詩であるが、私はこの詩がことに気に入っている。
1300年代ごろの詩だそうだが、大昔であれ現代であれ、人の気持ちはちっとも変ってはいないものだなあとつくづく思う。
 今年も、もう一か月が過ぎて、節分に立春。
あっという間に春分から桜の季節になり、気が付けば衣替えから夏至になる。暑い暑いと感じているうちに、時はうつろい彼岸から冬至に至る。そして又、新年がくる。
 かくの如くして、気が付けば馬齢を重ねること幾十年。
ほんとに、ほんとに、時の流れの速いこと。
誰が言ったか知らないが、光陰矢の如し。
見事に真実を言い当てている。
 そして又、学成りがたし。これも、学どころか、知識のかけらしか身につけてこれなかった。
蝶よ花よと世の中の誘惑に溺れ、時の流れに身を任せてきて、気が付けば終点が近い。
げにまことに、人生は難しいし、あっという間の夢のようなものかも知れないと、つくづく思うこのごろである。


 謹 賀 新 年

 自民圧勝 民主惨敗 勝てば官軍 負ければ賊軍か
憲法 改正:改悪? 原発 再稼働:廃止?  自衛隊 国防軍:専守防衛?  中・韓外交 強気:対話?       経済 インフレ:デフレ? 景気対策 公共工事:財政悪化?消費増税? TPP? 少子化、高齢化社会、社会保障?・・・
 
問題山積! とりわけ、武力強調の勇ましい掛け声と右傾化は気になる まさか、いつか来た道にということではないでしょうな? いずれを取っても、超難問ばかり  一歩、道を誤ると国を傾けかねない 世界の経済情勢もまた第二次世界大戦前の情勢に酷似してきているとか
 またまた、胃が痛くなって一年で総理の座を投げ出すなんてことはしないでしょうな?

平成9年467万円 平成23年409万円  ああ、悲しきサラリーマンの平均年収!(国税庁調) 年収減の格差社会は静かに進む  年収300万・正社員が結婚の壁だって? 学校では多発するイジメ  つまるところ、若者や子供に夢や未来が無くなりつつあるということか?

山中教授、ノーベル賞! iPS細胞? 何じゃ、それ? ダメになった組織が再生できる? けっこう、けっこう。 世界中のバイアグラおじさん達がハタチの頃に回春再生してもらえるなら、もう一回ノーベル賞をあげるって言ってますぞ!(ちと不純かな?)

山田五十鈴 淡島千景 森光子 小沢昭一 三宅久之 ハマコー などなど、逝く
降る雪や 昭和は遠く なりにけり  中村草田男 (編)

世の中、変わってきました この先、どうなるのでしょうか?

先の見通せない時代、何とか穏やかな年であってほしいとおもいます。

本年もよろしくお願いします

   
              2013年 元旦


9月21日
 「電気代が高いと経営が成り立たない」という経団連を始めとする経済界の声が、原発再稼働を推し進めているように見える。それにしても、我が国の経営者のレベルも落ちたものだ。
 要するに、一言で言えば、会社の経営をやりやすいように、政府レベルで保護してくださいと言ってるようなものだ。今日の日本の繁栄や、世界における産業のリーダーの地位が築かれてきたのは数々の国際競争の試練に打ち勝ってきたからではないだろうか。

 たとえば、まず最初に「為替の変動相場制」への移行。これなどは安い「円レート」に守られた輸出産業は猛烈に反対してきた。そんなことをすれば、日本の輸出は壊滅的打撃を受けるとまで大騒ぎとなったはずだ。しかし、その結果はどうだ?自動車をはじめとし、鉄鋼、電気等の各業種は世界に冠たる地位を築いてきたのではないか?
 あるいは、貿易の自由化。農産物の輸入自由化など。
これらの導入の際にも、反対、反対の大合唱があったはずだ。しかるに、今、そのような声はすっかりどこかにいってしまい、今更口にする人はほとんどいない。

 このように、国際競争が激しくなっても、日本の産業はそれを乗り越えてきたのである。むしろ、それをバネにして、合理化や技術革新などをとおして成長してきたのである。結果的には逆風があったからこそ日本はのびてきたはずだ。
 
 電気代が高ければどうすればいいのか?苦しいからこそ、経営者は努力をする。技術の進化をはかる。そして世界の企業との競争に勝って生き残り、会社を発展させていく。これが経営者の能力であり、使命ではないのだろうか?
 あべこべに、ぬくぬくと政府に守ってもらい、楽な経営を志そうなどと考える経営者達に、興隆してくるアジアの国々に対抗して勝ち残る能力がはたしてあるのか疑わざるをえない。
この人達には、ダーウインの進化論の意味をもう一度検証してもらいたいものだ。
9月17日
 「原発による電力の供給はやめろ」というなら、少々高い電気代を払わされても、それは仕方ないというのが私の考えだ。消費者が「危険もイヤ。お金を払うのもイヤ」というのは、わがままに過ぎるだろう。

 もちろん、当然のことながら、電力会社にはコスト削減の為の最大の努力はしてもらわなければならないことが大前提である。話に聞けば、彼らの給与水準はかなり高いそうだ。JALやシャープの例を出すまでもなく、給与や賞与をカットしてでも、会社は生き残る努力をするのが当然の義務であるからだ。
それでも、もうやっていけないから、電気代を上げてくれというなら話はわかるということである。

 と同時に、問題にされなければならないことは、自然エネルギーをもっともっと安く利用できるように、官民あげて努力をしなければならないということだ。
太陽にしろ、風力にしろ、地熱にしろ、高くつくからダメだという。しかしこれはおかしい。たしかに、今は高くつくかもしれない。しかし、技術開発や研究の積み重ねで、今よりも安くできる方法があるかも知れない。必死になって開発をする前から、高くつくからダメだという論理は、技術立国をはかるべき国家のいうべきことではない。

 早い話、50年前に今日の携帯電話を誰が想像したか?さらに、彼らは初期の10万円ほどもした携帯が、一時はただに近い値段で売られていたことを、もう忘れたのだろうか?
あるいは、薄型テレビ。これも出始めは100万円くらいしていた。それが今では、3・4万円で買えることに対して、自然エネルギーは高くつくからダメだという論者は、いったいどう答えるのだろうか?

 すなわち、今、ダメなことが、将来もダメとは限らないことは子供にもわかる話だ。
よって、当面は厳しいかも知れないが、官民あげての大開発政策をとり、安価な自然エネルギーによる電力の供給が得られるようになるまでは、少々高い電気代も我慢をして、原発に頼らないようにするべきである。