今回は秀頼と淀殿はじめ、最期まで付き従った者達がこもった糒庫(ほしいいぐら)についてです。
秀頼らがこもったこの櫓は、情報が錯綜しているのか、その名前が資料によってまちまちです。
『夏の陣覚書』や井伊家の年譜では「朱三櫓」。
伊達政宗の書状では「天守下之丸之蔵」、「やけのこりのどぞう」。
千姫の侍女の記録では「朱三矢倉の糒庫」。
家康の近臣の書物では「荒和布(あらめ)蔵」。
金地院崇伝の日記では「唐物倉」。
規模はほぼ一定していて『駿府記』などに二間に五間と伝えます。
場所は「山里の東南の方」「東腰廓」「天守下之丸」となっており、山里曲輪と東下ノ段帯曲輪の境界あたりと推定されます。
豊臣期の本丸の姿を伝える中井家「本丸図」では、山里は空白となっていますので、厳密な場所は確定できません。
宮上茂隆氏の考証ではこの場所。
この場所はちょうど豊国社の奥になります。
櫓の周りには最後まで付き従った者達。自害した人数は秀頼以下29名です。夏の陣では5万とも言われる大坂方がいたのに最後は29人…。細川忠興の書状によって、全員の名前も分かっています。
秀頼、淀殿はじめ、大野治長、毛利勝永、大蔵卿局、韓長老、真田大助など…
韓長老は大坂の陣の口実になった、方広寺の鐘の銘の作者。真田大助は幸村の息子ですね。
ちなみに、今回、東下ノ段帯曲輪はご覧の通り、土塀を掛けていません。
豊臣期の本丸が三段の石垣になっているのは、技術的に高石垣ができなかったからで、この狭い下ノ段帯曲輪は空堀のような役目だったのではという指摘もあります。空堀というのは狭い区域に敵を誘い込んで逃げ場の無いところを攻撃するという空間なので、このように土塀がなくても充分に役割を果たします。
なんと糒(ほしいい)櫓なのです。櫓や門、曲輪の名前に豊臣期の名称をそのまま引き継いだ部分が多い徳川大坂城にあって、これは偶然ではない気がします。