まず、その伝来。別名黒田屏風の名があるように、この屏風は黒田藩に伝わりました。夏の陣の様子を黒田長政が命じて描かせたと言われます。
大坂城の築城にあたり、大きな役割を担ったのが父である黒田如水。息子である長政は家康の下で父が築いた城を包囲し、攻めることになりました。豊臣家への思い入れも強く、冬の陣にあたっては江戸に留めおかれます。夏の陣では、豊臣家最後の姿をこの目で見たいと強く希望し、秀忠本陣の岡山に詰めることを許されました。そのように大坂城への思い入れがひときわ強い注文主が描かせたものです。信頼性は高いと言えるでしょう。
しかし、問題が無い訳ではなく、例えば下の最上階の唐破風内に描かれているもの。
一番最初に挙げた画像のように、本丸の建物の配置は西側から見た姿とかなり一致しますが、天守は南面を表していることになります。
ちなみに宮上氏の図面を見ますと
参考にキトラ古墳の朱雀と白虎の書き起こし。
屏風全体を見れば分かりますが、戦闘のあらゆる場面を描き込むには西から見た画面に描くのが最も効果的なのです。その中において、城の姿も克明に遺したいという長政の意思があったとすれば、夏の陣当日、秀忠本陣から見た南面の天守の姿をはめ込んだと考えられます。(秀忠本陣、岡山方面からの眺め)
そして、あえて、西からの風景に無理やり南から見た天守を描いている、という、絵師のメッセージ、もしくは長政の指示が、この、はっきりと方位を示す朱雀ではないかとも私には思えます。千畳敷の棟の向きも、南から見た屋根の形になっています。
当時の武将は優れた建築家でもありました。城というのはまさに自分の思想を形にしたものであり、縄張りをはじめ、細部にまでこだわりがあります。現在のように建売で既製品の建物をつくるのとは訳が違い、大工に命じて、注文通りにつくらせていったでしょう。長政も当然、大坂城の天守は目に焼き付いていたはずで、破風構成まではっきり覚えていたとしてもおかしくありません。
夏の陣図屏風は、その注文主の思い入れの強さが伺えることからも、なかり忠実に描かれているのでは無いかと私は思います。