豊臣大坂城本丸復元模型【天守の姿 屏風絵②】 | 城郭模型製作工房

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城郭模型作家・島 充のブログです。日本の城郭および古建築の模型やジオラマの製作過程を公開しています。

何点か伝わる豊臣期大坂城を描いた屏風の中で異彩を放つのが夏の陣図屏風です。

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独特の黒い天守。宮上茂隆氏は、この屏風が唯一本丸図に対応するとして、全面的な復元資料として採用されました。現在の大阪城天守閣の外観もこの屏風がもととなっています。

まず、その伝来。別名黒田屏風の名があるように、この屏風は黒田藩に伝わりました。夏の陣の様子を黒田長政が命じて描かせたと言われます。
大坂城の築城にあたり、大きな役割を担ったのが父である黒田如水。息子である長政は家康の下で父が築いた城を包囲し、攻めることになりました。豊臣家への思い入れも強く、冬の陣にあたっては江戸に留めおかれます。夏の陣では、豊臣家最後の姿をこの目で見たいと強く希望し、秀忠本陣の岡山に詰めることを許されました。そのように大坂城への思い入れがひときわ強い注文主が描かせたものです。信頼性は高いと言えるでしょう。

しかし、問題が無い訳ではなく、例えば下の最上階の唐破風内に描かれているもの。
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これは東西南北に対応する四神だというのが定説ですが、ご覧の通り鳥=朱雀が描かれています。朱雀は南を表します。
一番最初に挙げた画像のように、本丸の建物の配置は西側から見た姿とかなり一致しますが、天守は南面を表していることになります。
ちなみに宮上氏の図面を見ますと
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さりげなく西の白虎に入れ替えてあり、思わずツッコミを入れたくなります。
参考にキトラ古墳の朱雀と白虎の書き起こし。
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↑朱雀(南)
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↑白虎(西)
「キトラ古墳壁画「四神図」古代絵師の力量」より拝借)

屏風全体を見れば分かりますが、戦闘のあらゆる場面を描き込むには西から見た画面に描くのが最も効果的なのです。その中において、城の姿も克明に遺したいという長政の意思があったとすれば、夏の陣当日、秀忠本陣から見た南面の天守の姿をはめ込んだと考えられます。
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(秀忠本陣、岡山方面からの眺め)

そして、あえて、西からの風景に無理やり南から見た天守を描いている、という、絵師のメッセージ、もしくは長政の指示が、この、はっきりと方位を示す朱雀ではないかとも私には思えます。千畳敷の棟の向きも、南から見た屋根の形になっています。
当時の武将は優れた建築家でもありました。城というのはまさに自分の思想を形にしたものであり、縄張りをはじめ、細部にまでこだわりがあります。現在のように建売で既製品の建物をつくるのとは訳が違い、大工に命じて、注文通りにつくらせていったでしょう。長政も当然、大坂城の天守は目に焼き付いていたはずで、破風構成まではっきり覚えていたとしてもおかしくありません。
夏の陣図屏風は、その注文主の思い入れの強さが伺えることからも、なかり忠実に描かれているのでは無いかと私は思います。