豊臣大坂城本丸復元模型【奥御殿】 | 城郭模型製作工房

城郭模型製作工房

城郭模型作家・島 充のブログです。日本の城郭および古建築の模型やジオラマの製作過程を公開しています。

前回より詰の丸に入ってきましたが、鉄(くろがね)門あたりの現在地写真を載せ忘れておりました。




現在の大坂城の天守閣南、金蔵の西隣にある、トイレの緑地あたりがちょうど四層櫓の台あたり、そのとなりが鉄門の位置になります。


また、天守閣の南にタイムカプセルがありますが、その近くに、マンホールのような土管が顔を覗かせています。



説明板も何もないので、誰も足をとめませんが、この中には昭和34年に発見された豊臣期の石垣が保存されています。宮上・櫻井両氏の重ね合わせ図の検討から、下ノ段帯曲輪と中ノ段帯曲輪をつなぐ石垣であるとされています。下の赤丸の部分です。



それでは、詰ノ丸、奥御殿に参ります。



奥御殿は秀吉のプライベートゾーンであり、男子の出入りが厳しく制限された、大奥のような場所です。フロイスによると、信長に仕えていた奥女中をそのまま引き継ぎ、当初は120名ほどだったのが、三年後の天正14年には300人に増えていたといいます。秀吉存命中は正妻であるおねが采配をふるいました。秀頼の代になると淀殿が居座ります。冬の陣配陣図の中には、この奥御殿の部分に「御母儀」や「御母」と書き込んだ一殿があるそうです。しかし大坂の陣当時の城主は秀頼であり、正妻は千姫のはず。淀殿は千姫に奥御殿をわたさず、城主然として君臨していたのでしょう。


奥御殿の建物ですが、玄関のある遠侍から、武家の舎殿様式にならい、赤い矢印のように雁行しながら奥へつながるつくりです。



対面所はこの法則から外れており、あとの増築部分ではないかとの櫻井成廣氏の指摘があります。(上の写真内、「小御所」とあるのは「小書院」の誤りです。)


奥御殿に関しては、大友宗麟の拝見記が有名で、それぞれの部屋に対応していて面白いです。

小書院は秀吉夫婦の寝室。ベッドが置かれ、敷物は猩々緋。黒染に金物黄金の鎧がおいてあり、その上には長刀が架けてありました。金梨地の違い棚もありました。金襴に入った茶壷を利休が出して見せたので、宗麟は感動します。

そのあとに通された納戸では女房衆の色とりどりの小袖がかけてあるのを見、また金が30貫目ほど置いてあるのを、秀吉は「これははした金だ」などと言ったりします。


御殿の北の方には蔵が並び、また天守も宝蔵として使われていましたから、豊臣家の財産はここに集まっていました。


さて、この奥御殿と表御殿、二つの御殿をどのように行き来したのでしょうか。それについて、秀吉の晩年に、表御殿と奥御殿をつなぐ長廊下が作られたと言われます。

夏の陣図屏風にも見えます。



これは「千畳敷の廊下」と呼ばれたようで、『落穂集』には、家康が慶長4年9月9日に、重陽の節句の祝賀のために奥御殿の秀頼母子と対面します。有名な家康暗殺計画です。予め計画を察知していた家康は桜の門の番人が止めるのを振り切り、配下の武士を連れ立って大坂城に乗り込みます。式が終わって退城する際に、突然「千畳敷の廊下」の前を「右の方へ御出」、大台所の二間四方の大行灯を家臣に見せると言い出し、内玄関から退出したとあります。これは千畳敷の廊下で、暗殺されるのを回避するため、突然右に曲がって予定と違う場所から出たと言われます。この暗殺計画の真偽は不明ですが、これを口実として言いがかりをつけ、家康は大坂城の西の丸に居座るようになりました。(『落穂集』8巻現代語訳 8-2家康暗殺計画の風聞)


この記述からすると下の赤い矢印が家康の通ったルートではないかと思われ、千畳敷の廊下は





櫓の「取付」あたりを経由して、石垣を超え、土橋の蔵の二階を通って表御殿・千畳敷に至るルートではなかったかと思われます。

表御殿・千畳敷に堀を超えて舞台への橋がかけられ、この千畳敷の廊下が作られるにおよんで、大坂城は戦いの城から、天下人の宮殿へと性格を変えていったと言えるでしょう。



【参考文献】

『豊臣大坂城』、笠谷和比古・黒田慶一、新潮社

『豊臣秀吉と大坂城』、跡部信、吉川弘文館

『豊臣秀吉の居城 大坂城編』、櫻井成廣、日本城郭資料館出版会

『大坂城』、宮上茂隆ほか、学習研究社

『大坂城 天下一の名城』、宮上茂隆、草思社