明治時代の国内の通信状況

  明治時代の日本国内の通信状況はどのようなものだったのでしょうか。

 

 まず、明治元年に東京・横浜間で電信線が結ばれ、その後国内の基礎的な電信網が完成しましたが民間利用はまだ先の話でした。

 

 明治10年の西南戦争の時は、九州各地まで伸びた電信線を使って政府軍が救援を要請した記録が残っていますが、明治20年創業の東京急報社は国内初の近代通信社でしたが、この頃になっても伝達手段は手旗信号と文章でした。

 

 一方、世界の通信状況はイギリスが海底ケーブルで各大陸をつなぎつつあり、明治4年には長崎からロンドンまで電気通信が可能になっていました。

 

 明治初期にはすでに日本の国内情勢がリアルタイムで欧米諸国に知られるようになっていたのですから驚きです。

 

 イギリスからインド経由で上海まで海底ケーブルをつないだのは英イースタン・テレグラフ社で、長崎から上海をつないだのはデンマークのグレート・ノーザン・テレグラフ社でした。

 

 欧米諸国と比較して工業力と技術力で大きく遅れを取っていた日本は通信面でも大きく水をあけられていました。

 

 状況としては、日本の領土を通過する通信回線ですら欧米の民間企業に好きなように使われ、国際通信に関する自主権はありませんでした。

 

 海底ケーブルを使う際にも日本の情報は欧米の通信社に筒抜けで、国家の危機管理上課題がありました。

 

 そこで独自の国際通信網を作るためにイギリスから海底ケーブルを購入して、九州と台湾を結んだり、朝鮮半島をつなげるなどしましたが、欧米諸国の世界規模のネットワークには到底敵わず、彼らの管理下から逃れることはできませんでした。

 

 このように海外からの情報は欧米諸国に握られたまま国内では「通信社」を名乗る企業が設立していくことになります。

 

参考:THINKER署「マスコミとお金は人の幸せをこうして食べている」徳間書店(2011)