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大辻織絵 ―「Yesだった。」

織絵さんが、今日のことや昔のことを回想しながら、いまに生きるさまを書き綴っています。

うちの実家は自然なお産ができる産院として知られていた。
私の周りには「自然なお産」に関連したあらゆることが空気のように充満していた。




ダッコ紐というものがある。
スリング、ともいうのか。


大きな布を特別な束ねかたをして胸の前に赤ちゃんを抱くように固定することができるようにしたもの。
ダッコ紐に入った赤ちゃんはお腹の中にいたときのような姿勢になり、お母さんの鼓動がすぐそばに聞こえて安心できる。布をちょっとめくれば顔を見あうことができるというものだ。

実家には、出来る限りお産を自然にしたいという明確な意思をもって集まってきたお母さん達が多かった。

そのせいか、ダッコ紐が出現したときはなかなかの騒ぎになった。
周りのお母さん達がみんな、思い思いのお気に入りの布で作ったダッコ紐を使っていた。

まさに、毎日がダッコ紐祭り!
という光景だった。



親子がいつでも顔を見会わせてコミュニケーションできるなんて素晴らしい!
お母さん達が嬉々としてダッコ紐を使っているさまを見て私は思った。

お母さんが赤ちゃんを体に固定するためには、それまではおんぶ紐が主流だったようだから、いつもだっこしてもらえていて、親と子がいつでも向きあっていられるなんてほんとうに画期的なアイデアだと思った。


仕事の片手間で子どもをあやすのはよくない、仕事をあまりにも優先して子どもとの時間を犠牲にするのはよくない、
そんな考え方は一般にもあるようだったけれど、例に漏れず、私もそう思っていた。
親子が向きあわないでしまうということが諸々の不幸の根源だ、くらいまで思っていたフシがあったから、ダッコ紐には、私も心のなかで飛び付いた。





さて、その後それなりの時間が経って‥


結婚して暫くして、どんなきっかけだったのか迄は思い出せないが、
"おんぶ紐のおんぶ"は素晴らしいと夫が言いだした。

それから何度か、そういう話しになった。



ほんのこの間まで、
彼のその意見には賛同できなかった。


移動や旅のときに使うようなリュック型ならいいが、おんぶ紐のおんぶというと胸の前で紐がクロスされて、おっぱいを強調するような状態になってしまう。
その姿が、なんとも気恥ずかしいというか、所帯じみて見えてしまい、自分がやるのも人がやっているのを見るのもいやだった。
そういうファッション的な見方しかしていなかった。





それが、先日、
おんぶ紐のおんぶって凄い!という思いがどどどーと湧き上がってきた。


自分の仕事や取り組みに勤しむ親の背中に顔や頭、胸からお腹、股の間も内腿も、ほとんど前半身の全身をぴったりと密着させて、
親の体温を直に感じ、息づかいを感じ、親のからだの動きを感じとる。
親の感覚を追体験する。

赤ん坊のときにそんな明確な認識は起きないだろうが、日常的にくりかえしそれをからだで実感する。
言葉で教えられたり伝えられたりすることではないからこそ、寧ろ頭の理解を超えてもっと深いところに体感、体験として染み込んでいく。



おんぶをされた子どもは、親の背中で、
親が手を使い、体を使い、心を使い、ものや人びとと相対する現場にリアルに立ち会う体験をする。

背中におんぶされたの子どもは、自分自身が手足、心を使って事に当たらなくても、
親の背中で親とひとつになって、親の力、スキルを自然に感じとり、受け継いでいく。







このご時世、多くの場合、仕事場に子どもをおんぶしていけない。もちろん、そもそも連れていけない。

現場やものづくりの仕事は危険があるというのもあるし、
営業職も、事務職も、管理職も、販売や接客やお掃除のお仕事も、お父さん、お母さんが子どもをおんぶしてやる訳にはいかない空気だ。
親自身の気持ちはどうなのか私には想像つかないが、一般的には対外的におしなべて喜ばれないだろうか。





でも、どうしても想像してしまった!

私が赤ちゃんで、一心に仕事に取り組む親の背中におんぶされていたとしたら‥




感動が込み上げてくる。



親自身が仕事に取り組む動機は、どんなでもいいと思った。
お金のためでも、家族のためでも、自分の出世のためでも、自己実現のためでも、社会のため、世界のためでも、来世のためでもいい。

その事に一心に、一身に当たる親の背中に全身でぴたーっと密着して、それを背後から眺め、感じとったとしたら!

どれだけ愛しく、どれだけ親のことをよくやっているよ、素晴らしいよ、と感じることだろう、と。



お金のためとか、自分自身のためだとかであれ、親を、親のそのがんばりを愛おしく思うだろう。
親を、自分と同じ一人の人間としていっそう近しく愛しく感じるようになるかもしれない。


ものづくりや仕事や家事に勤しむ親の背中なら、事に当たるときの心の姿勢を学んだり、人間は取り組み次第でどこまでも素晴らしい仕事が出来るんだ‥そんな人間の可能性というものに自然に目が開くかもしれない。


例えば、もしも苦情窓口のお仕事をする親の背中にいたとしたら、親をとにかくとにかく応援したくなるんじゃないだろうか。
お客様の気持ちをわかることができず、お客様の立場に立てず、わかってほしいどうか勘弁してほしいと思う親であったなら尚更、大丈夫だよと背中をさすったり、応援したくなってしまうんじゃないだろうか。


家事に勤しむ親の背中ならどうだろう。
心を込めて、であれ、義務的であれ、毎日毎回飽かず途切れず、家族のために取り組む姿にただただ敬意を感じるようになるかもしれない。


農作業や林業、漁業、自然相手の仕事にがんばる親の背中だったとしたら?
一人の人間が果たし得る、大きなる自然のちからを借りて成しうることの可能性に胸が踊るかもしれない。






親の気持ちやあり方によって、子どもはそれぞれに、親を愛しく感じ、親の存在や仕事を尊いものと感じ、
親の経験を通して、生きていく力や姿勢が自然にからだに染み込み、感性が磨かれていく、ということがあるんじゃないだろうか。



同じ方向を向いて、ぴたーっとからだを密着させて一体になることができる"おんぶ"には途轍もない力がある。

そんな風に感じられてきた。

頭で学ぶのではなくて、
親の背中で、親の仕事を通して、そのずっとずっと奥の方にある智恵や叡知に触れられるんじゃないか‥

そんな風にまで感じられてきた。




子どもをおんぶをして仕事をしていたのは主に、お母さんが多かったろうから、
私の想像は行き過ぎで、荒唐無稽なものに映るかもしれないけれど・・・








「向きあう」ということばが、少し特別な空気感を纏うようになって久しい。


私自身、長い間親に向きあってほしくて、
どんなに望んでも、あれこれとアプローチしても向きあってもらえず、
拗ねたまま大人になり歳を重ねた。

親子、夫婦、家族、そういう特に近い間柄なら、
向きあえるようでありたいと思っていた。
向きあわなくちゃいけないし、向きあうべきだと思っていた。

それは自分自身についても同じだと思っていた。




一番向きあって欲しかった親に向きあってもらえないんだと諦めた私は、自分自身と向きあった。
飽きもせず、長いこと自分自身と向きあってきた。


夫という人と出会って、
夫ともがっつり向きあってた。





向きあうことはほんとうに素晴らしいことだ。

そこから気づかれ、そこからこそ生まれるものはほんとうに美しく、強く、意義深い。





45を過ぎて最近、
やっと自分の人生のあれこれを親のせいにしてしまう考え方から脱却した。
拗ねる気持ちが自然に消えてゆき、親から巣立ちができた、自立できたんだなと自然に思えるようになっていた。


そうして、
「向きあう」ことを格別に重視していない自分がここにいた。


散々向きあってきたけれど、
向きあおうと意識もしていない今、色々を親のせいにしていた頃とは別世界にいる感覚で生きている。




そうだったのか・・・


親とは向きあいたかったのではなく、
並んで歩きたかったんだな。


父に私の話しを聞いて欲しい、私が何を考えているのか知って欲しいと思っていたが、真意はもっと他にあった。


ただ、わかちあいたかったんだ。

親子といえど違う人間同士なのだというごく単純な真実を直視しあい、違おうが何しようが、私たちは人生という旅の道連れなのであり、人生の航路を共に進む同志なのだ、ということを確認しあいたかったんだ。

向きあうことそのものを望んでいたわけではなかったんだ。


それは親との関係だけじゃない。

夫とも、その他の人々とも、そうだったんだ・・・








今、夫と肩を並べて、歩いている。

文字通り、実際に肩を並べて歩き、
仕事を一緒にし、人生をまさに並んで歩いているような感じだ。



肩を並べるようにして、
共に事に当たる。

その事に取り組むなかで見えてくる事が、それぞれの心の中にある。

肩を並べて、その事を言葉や空気でわかちあったりする。

ただそれだけで、相手も自分も見えてくる。より深いものが観えてくる。




衝突も起きなくなる。

衝突によってやっと観えていたことが、衝突しなくても観えてくるようになる、そんな感じだ。

軽やかだ。






向きあわず、おんぶしたりされたり、同じ方向をみて、互いの息づかい、存在を自然に感じあいながら歩む。
同じ方をみて、自然にコミュニケーションが起こる無意識のコミュニケーション。

それは、そこかしこで無意識に行われて、無意識に生活に生かされていたのではないかと思いはじめた。


そこに、「向きあう」という新しい、意識的なコミュニケーションが登場した。




その意識的なコミュニケーションを経験して、もがいて、努力して観えてきたことのその先にまた新たに立ち上がってきた「向きあう」のではないコミュニケーション。


それによってまた生まれてくる敬意や、愛おしさや、智恵がある。
それを自然に受け取る。
実生活に生きてくる




そうして、
また私達は次の一歩を記していくのだ。