結城秀康④ ~越前宰相の心にあったものは?~  | 戦国人生浪漫 ~武士の時代に生きた人々~

結城秀康④ ~越前宰相の心にあったものは?~ 

結城秀康④  ~越前宰相の心にあったものは?~



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* 画像は戦国待受本陣さまよりお借りしております




こんにちは!信濃です。



羽柴秀康として、自分の居場所を見つけた彼でしたが、

大名としての本格的デビューは、養父・秀吉による

北条攻めが終わった1590年頃のことでした。



またしても、他家に養子に出ることになったのです。

そこは下総の国。結城家で10万石。



跡継ぎのいない結城家当主、晴朝が豊臣政権との結びつき

の強化を図ってのことだといわれています。

以前のように「命の危険」は感じなかったかもしれませんが、

同時期に父・家康が関東に移ってきたこともあり、

地理的には徳川方に戻されたという見方も

できないわけではありません。

(逆に徳川家に睨みを利かす存在と考えられたか・・・?)



豊臣秀吉としては甥の秀次を後継者にしたこと、

徳川家との関係が安定したことで、秀康を自分の養子にしておく

意味が薄れのでしょう。

どちらにせよ、この時の秀康も複雑な思いがあったことでしょう。



そして秀吉が亡くなり、

時は関ヶ原の戦いの前哨戦、上杉討伐の機会がやってきます。

秀康は「豊臣家のために、逆賊上杉を討つ!」として

立ち上がった家康に従います。



秀康としては、初めて父の側で戦うのですから、

手柄を立てて褒めてもらいたいのが正直なところ。

当然、気負うところもあったことでしょう。



石田三成の挙兵によって、その対戦相手が上杉から石田に変わり、

家康は西に反転します。



この時、秀康は同行することを求めましたが、家康はこれを

認めませんでした。

「またしても、父は私を遠ざけるのか!」


彼の脳裏をかすめたのは

信用されていないのか?

手柄を立てさせたくないのか?

という疑問と悔しさだったのでしょうか。



結局、秀康は上杉に対する抑えの任務を受け、

その場に残り、戦うことはありませんでした。

しかし、戦後は上杉を抑えたその功により、

越前一国・68万石とも言われる領土を与えられて大出世!

自分に対する評価がもっとも高まる時を迎えたのでした。


秀康はその7年後、34歳にて短い生涯を閉じることになります。

苦労が報われての最後ともいえますが、その一生をこうして振り返ると

必ずしも報われたといいずらいのが、正直な感想でしょう。



結城秀康。

その生涯をつうじて心の内側にあったのは

どんな想いだったのでしょう。

記録の無いことは想像の域を脱しません。

ですが、時代と肉親に翻弄された人生が

私たち現代人に残してくれた生き方は、少なからず

貴重なメッセージを与えてくれるのではないかと思います。


次回からは彼の逸話などを元に皆さんと語り合えたら

いいなと思っています。


            

                  次回につづく