先日、ファッションのコンサルティングをされている方のお話を伺うことがありました。
その中で、こんなフレーズを聞き、面白いなと思いました。
「街中で見かけた人、みんなファッションに全く気を使っていないなって思ったんです。自分の個性をちゃんと表現してあげないで、自分が可哀そうって。」
個性が表現できているか否かは別にして、私には、街中でも電車の中でも、みんなそれぞれファッションには気を使ってるように見えているけれど、プロから見ると全くなのかな。って。
面白いなと感じた理由はもう一つ。
私にとってファッションが、個性や自分を大事にすることの重要ポイントだという認識が薄いためです。
以前も書いた気がしますが
私たちの時代、田舎の中学校は、全員丸刈りで規定の学生服。女子は決まった制服におかっぱでした。
するとどうなるか。
個性って「中身」のことに、自然となるんです。
中身って、性格のことなのか、もっと深い在り方のことなのか、その両方なのかは、個人の視点によるのかもだけれど。
中学を出て通った高校は、華美でなければ私服OKでした。
その高校のクラスメイトが、「ファッションや髪型なんていう個性に関わることを制限するのはおかしい。」的なことを言った時、担任の数学の先生が、
「人の個性ってそんなもんじゃないぞ。北畑はわかってるよ。君もいずれ分かると思う。」と言ってくれたのが印象に残っています。
今でも記憶に残っている理由は、そう言ってもらえて嬉しかったのが1つです。
数学が赤点ギリギリの私のことも、別尺度で認めてくれていたんだと。😊
そしてもう1つは、ファッションのような表面的なもの、しかも時代や流行で変わるものをホントに個性だと思ってる同世代がいることが衝撃すぎて。
… 決まった正解を出すことに頭を使わせる画一教育で中身の個性を奪われているから、個性って外見になっちゃったのか。。。
そんな私も今は、ファッションもある程度大切だと考えています。
人は子どもから大人になるにつれて
「いのちや心」から「大脳」に、その感覚の比重を移すから。
透明な本質じゃなく、カラフルな思考や感情に、その比重を移すから。
思考や感情は、ファッションに滲み出る気がするし、ファッションはその人の思考や感情に影響を与えると、そう思います。
↓ お世話になってる方のパーティにて。
「わたしを思い出す星詠み」の吉澤ともかさんと。
アロハシャツにクコの首飾り、ボタンをきちんととめれば、ハワイの正装です。
アロハ-ポリネシアンスタイルは、もうネイティブにしか思えないと、ウケがよくて私もラクです。
「ファッションと自分の持ってるエネルギーとの一致感」のようなものは、自分も周りも息がしやすくなるように感じます。
で、ここからが本題(この、後半パターン^^;)
自分の性質・個性を外に表現してあげないで、自分が可哀そう。
たしかに。
けれど、潜在意識やさんの私からすると
内の自分自身をまるっとそのまんま愛してあげようとしないことのほうが、自分が可哀そう。
って、そう思うんです。
ファッションだけではなく
考えていることや感じていること
ご自身の商品・サービスなども
外にちゃんと発信しているのに
満たされない気持ちがあったり
思考では感謝しているけれど心から湧き出る感謝が起こらなかったり
なんだか愛してもらえなかったり
実力に見合った仕事や立場と縁がなかったりするときは
内の「愛されてない」感が、どこか外に漏れちゃってるのかも知れないなと。
外への発信が得意な方は
愛されてない感を補うのに
無意識に何かを求めてしまったり、おせっかいや指摘してしまったり、あるいは逆に、奉仕してしまったり。
けれどそれらが、愛され感が余ってしている行動ではないので、相手は無意識レベルで「与えられたとは感じない」ので、愛が返ってこないという体験をすることになりかねないと思うんです。
してあげているのに、してくれない。
そんな風に感じる方は
外へのアピール・アプローチの仕方を工夫をする前に
まず
自分で自分をまるっと
長所も短所も
好きなところも嫌いなところも
愛してあげて、認めてあげて
そのあと
自分に愛されていることを
じっくり
感じてあげてほしんです。
すると
好みのファッションが自然と変わるかもしれないし
美容室行ってないのに「髪切った?」といわれるほど雰囲気が変わったり
発信の文章や写真から滲み出るものも、変わると思うのです。
よければ試してみてください。
ユニクロのシャツ ↑(≧▽≦)
・・・・・・
【未来を受け取るリトリート】
11/23-24 淡路島
12/1-5