わからない、という感覚。 | Un poisson rouge

わからない、という感覚。

確か、小学校の低学年くらいのときであったと記憶している。

その頃、「貿易」という概念が、どうしても理解できなかったことを、今でも覚えている。

授業か何かで「貿易」という言葉に、恐らく、自覚する中で初めて出会い、どうしても、その意味がよく分からなかった。

「わからなさ」ということについて考えるとき、わたしは、このときに抱えていた感覚を思い出す。

頭に、ありありと思い描くことができない、とでも言えば良いだろうか。

その後、私は、「貿易」という言葉の意味を、文章等を読むうちに、また、社会科などで取り扱われるのを耳にするうちに、少しずつ、何となく理解するようになっていった。

小学生の自分にとって、「貿易」という概念は、あまりにも遠く、頭の中に、リアリティを伴って思い描くことのできるものではなかったのだ。

しかし、今、大人と言われる年齢になり、世の中が、どのように成り立っているか、経済、社会等について、ある程度、「理解する」ようになったこの自分が、また、同様に、社会の「大人」と呼ばれる年齢に達した人たちが、
「理解する」、「わかる」と言うとき、果たして本当に「わかって」いるのであろうか、ということを考える。

ある言葉を、その言葉の用いられる文脈で理解するようになっていく。
言語の習得とは、そのようなプロセスを繰り返していく中で行われていくのかもしれない。

しかし、小学校低学年の私にとっての「貿易」という概念同様、自分にとって、実感を伴って理解できるはずのないことを、私たち人間は、容易に、「理解した」「わかった」という気になってしまっているのではないか。そう、思うことがある。

現代は、「文字の時代」であるように思う。
インターネットは、映像ももちろん見られるけれど、何より「文字」を広めている。
文字を読み、「理解した」気になることは、いとも簡単にできてしまうように思う。

しかし、そこではたと考える。

本当の意味での「理解」とは、実感を伴っていなければならないのではないか、と。

「理解する」ということは、考えている以上に、本当は、とてつもなく難しいことなのではないのだろうか、と。

頭で考えるよりも、実行に移すことのほうが、(これも主観であるが、自分の感覚としては、)とても難しいように、
現実を、実感を伴って「理解する」とは、私たちのこの短い一生で、ほんの少しのことについてしか、言えないのではないか。


だからこそ、「わからない」という感覚を、大切にしたい、と思う。
自分が、何を「知らない」のか、「わからない」のかを、分かっている、ということは、
謙虚になることができる、ということではないか、と、思う。。

自分のことすら、たとえば自分の体のこと、脳みそのこと、すら、
実はよく分かっていないのが、人間である。(分かっている人も、中にはいると思いますが。)

今、たたいている、このパソコンの仕組みすら、分からないで使っている自分が、いる。

実は、分からないことが、ほとんど。と言っても、いい。

「わからない」という感覚を、大切にしていきたい。

そこに、生きていく上での、大切なヒントが、隠されているように、今、思う。