浅草から浜松町行きの遊覧船に乗った。風情のかけらもない隅田川の、なんとも豊かな有機物の濁り具合と、河岸に建ち並ぶ、廃墟と化した蜂の巣が印象的だ。

雲が空に溶けて陰湿さはなお増した。廃墟の屋敷のほうから視界に飛び込む、鳥の軌跡は一瞬、雲の辺縁を想起させたが、私の貧しい想像力は、稜線までは生み出さなかった。

逆に目ざとい私は、必需としてエンジンの真上に位置していた。文明の上に佇む、私の鼓膜に届く轟音に添え寝するかのように、渓流を偲ばせる水のうねりが音となり、私だけの空間を支配した。

その音の元をたどり、文明と自然の融和に観念を集中させると、視界には全ての神話的偶像としての泡が、生成と消滅を繰り広げ、遠近法に則って痕跡だけを存在の意義としていた。

この泡は、人類の母なる麻薬、アルコールに関連し、宇宙の初期条件を反映し、私自身の好適エネルギーの父だと、過剰認識しながら、片手には隅田川地ビールの泡が、無口の鼻先を濡らした。

繋がれた風さえ動き始めて、ジグソーパズルのような橋が動きを止めた所が、浜松町だった。帰りは人、人、人の山手線でした。(終わり)