こんばんは

 昨夜は、連日の疲れがピークに達してバタンキューでしたzzzzzz

 
 今朝は、早朝のニュースに合わせ
 一緒に黙祷

 今日1月17日は、阪神淡路大震災から22年

 22年前の午前5時46分、あの大きな地震が発生し たくさんの尊い命が犠牲になった。

 私も当時兵庫県に住んでいて、2才になったばかりの長男の『ママ、おしっこ』で目が覚め、 クレヨンしんちゃんのパズルを飾っていたトイレへ誘導

 トイレトレーニングを始めた頃より
 トイレ=楽しい場所、しんちゃんに会えるよ♪ って(^^)

 その日も、用を済ませ再び眠りについた子どもの寝顔を確認

 まだ早かったので、再び眠りにつこうとベッドに横になってしばらくしたら

 今までに聞いたことのない地鳴りと、激しい縦揺れが襲い

 瞬時に長男に覆い被さり 守りの姿勢に
 縦揺れから横揺れに

 かなり長く感じた激しい揺れ

 建物が軋む音も初めて聞き、もしかしたら倒壊してしまうのではと 物凄い恐怖を体験。

 揺れがおさまった後も、何度も襲う余震に
 
とても地震に敏感になってしまい
  怖さと、子どもを守らなければという思いで…。
 
 ショックもあり、震災後数ヵ月の当時の記憶を鮮明にはあまり覚えてないんですけど、直後の私の周りで起きた出来事の記憶としては

 地震発生直後、停電、ガスの臭いが漂ってきて恐怖を覚えた。

 外に出て、周辺の民家で火災は発生してないことを確認、社宅横の(当時は社宅に住んでました)お隣の木造のアパートが倒壊(住人の方々は避難されて無事でした)

 電気は、電力会社の社宅がすぐ近所にあり、職員さんの復旧作業により7時半までには復旧し

 テレビをつけてしばらく茫然
  神戸が火の海に包まれ
 ちょっと先の高速道路が、波打ったように壊れ

 ガスと水はしばらく不自由でしたが、命は助かったので

 ご近所さんと助け合いながら

 ガスもカセットボンベで代用できたし。

 日中の揺れは、小さな子を抱えたママには二重の恐怖で(当時は私も20代半ばだった)
 子どもの命を守ることも含め

 
 御主人が仕事に行ってる間は怖いとのことで、余震が頻発してる頃は、我が家で一緒にお昼食べたりしながらご近所ママ友と親子で過ごしたりしてました。

 我が家はその頃も夫は四国に単身赴任中で、交通網も寸断されてたので

夫が兵庫入り出来たのは、地震発生から2週間後でした。

 地震発生時の恐怖を話しても、兵庫と四国では揺れの大きさも違ったので温度差がありモヤっとしたこと覚えてます←そういった感情は覚えてるんですよね。
 

 テレビに映る惨状に胸が締め付けられ
 何かしたい、少しでも力になることがあれば…

 地震発生時、運良くというか
 大阪に一人暮らししてた妹が我が家に遊びに来ていてお泊まりしていたのです。

 妹にとっても良かった。
 電車は寸断したので、もしも別々の場所で遭っていたら…。
 
 地震の時も、揺れ始めてしばらくしてから(私たち親子のベッド横に布団敷いて寝ていた)
『ねぇ、じ、地震!! 地震だよ!!』って。

  わたしは長男のトイレで起きたまま地震の始まりからずっと目覚めていたので
 『うん、知ってる』 トーン低めに答えたんですよね。

 多分 妹がかなり動揺してたので逆に冷静に返したんだろうなぁ。


 そんな妹ですが、今でも 我が妹の行動に感心し 妹のこと誇らしく思えた出来事が

 震災後、テレビで被災地の状況が伝えられていく中 避難所の方々の様子や 被害に遭われ大切な御家族が犠牲になった方や、

 火の手が襲ってきて避難する途中で 下敷きになった家屋から助けを求める声が聞こえてきて、何とか助けようとしたけれど女性で力がなくて救うことが出来ず

 そのことで苦しみ、体調を崩すことになった知人もいて。

 地震直後は、安否確認も電話がなかなか繋がらなくて

 こちらからも『大丈夫ですから安心してくださいね』って家族親戚に伝えたくても、また向こうからも掛け続けたけど繋がらないと。

 心配して交通も寸断された中、復旧作業の合間に安否確認に家まで顔を見にきてくれた友達もいたり

 
 妹の話に戻しますね。

 避難所の方々の様子を知るにつれ、何かしたいという思いが募り

 しかし小さな子を抱えているわが身は、今はこの子を守らなければいけないというジレンマと

 そんな時
  『お姉ちゃんは○ちゃん(長男の名前)のそばにいることが今は一番やで!
  明日、神戸の避難所に行くから自転車貸してね』

 鉄道も寸断され、道路も瓦礫に阻まれ
私の自転車で、デコボコになった道を必死にペダルこいで神戸の小学校の避難所目指して何時間もかけて炊き出しのボランティアに行った妹

 豚汁を作り、おにぎり握った話
 そして、避難所の様子
 水が不足して、トイレも不自由で

避難所の人々がそんな状態だから
 ボランティアに行ってる身として、大切な資源である水を使うことを躊躇し トイレを我慢した話


 翌日も神戸に向かい自転車を走らせ
 炊き出しのお手伝い
  前日より人数が増えていたと。

 私も、妹から避難所の様子を知るにつれ、自分が今できることをしよう!と思い、避難所で今圧倒的に不足して困っているもの等を購入し、ご近所のママ達と物資を送りました。

 
 そんな妹が、つい先日
『私も社会に何かしらお返ししなきゃいけない年齢になってるのに、何も出来てない』って言ったんです。

 それで、私は22年前の妹の迅速な行動力に胸を打たれ、凄く嬉しかったんだよって伝えたんです。

 今はかなり忙しくて、毎日の生活でいっぱいだもの。
  その気持ちだけでも十分

 また、未来にその思いは自分の道に繋がっていくよって。

 ボランティアは、いくつになってからでもスタートできるからねって。

 いろんなボランティアがあり、いろんな形で参加できるのもボランティア。


 大切なのは 心を向けること。
 

 妹の22年前のことも思い出したりしながら…。

 阪神淡路大震災から22年
 
 大切な御家族を亡くされた方にとっては    
  時間は あの時 止まったまま

 今日のテレビの中で何人かの御遺族の方が、追悼の集いからインタビューに応えられてました。

 テレビの前で悲しみを語るのは、とても勇気のいること。

 それでも話されているのは、亡くなった子どもさんやお孫さんの死を無駄にしたくない、けっして地震を風化させてはいけないとの思いから。


 地震により7歳と5歳の子どもさんを亡くされたお父様が、小学校へ行き 地震を体験してない子ども達に 地震発生まで使っていた我が子のランドセル、そして先生とやり取りしてた日記
 『せんせい あのね』

 1月16日に書かれた最後のページには

 『あした たべるのたのしみです。』と

 当たり前にくるはずの明日が
 ある日突然なくなっちゃったんですよね(;_;)

 小学生の子ども達に 分かりやすく伝えられてたお父様の想い

 きっと その子たちには 命の大切さを含め、地震から いろんなことを考えるきっかけになったことと思います。

 風化させないためにも、震災を知らない若い世代の人々に知ってもらうこと

 地震発生した日のことを知ってもらうことは大切なバトンを繋ぐことにもなる。

 平成7年はボランティア元年と言われています。
 
 阪神淡路大震災から3年後の平成10年にはNPO法が成立し、保健、医療、まちづくり、心のケアなど さまざまな団体が被災地を支えるようになりました。

 風化させてはいけない

 やさしいこころの輪が繋がって
  すべての人に やさしい社会になりますように。

 芳岡ひできさんの絵画展に年明け行き、版画を購入

 エアーブラシで描く可愛くてファンタジーな世界。

 大好きな画家さんです。
 自然と可愛いキャラクターのコラボ
  この調和がやさしいタッチで描かれていて癒されるのでファンになって何年かな( ´∀`)

 その日、芳岡先生もいらっしゃり
 サインと握手していただき 感激でした。

 大好きなチューリップが描かれた版画
 チューリップの花言葉は おもいやり
 
  てんとう虫もしあわせを運ぶ使いと言われてます(*´∀`)

 いろんな思いを抱えながら
 たくさんの人々が それでも前を見て歩んでいこうとされてる

 
  想いを未来に繋げていけるように
 ひとりの力は小さくても
 想いが集まれば 大きな力に。.:*:・'°☆