学校帰りの金曜日、俺は1通のメールを受けた。
「ご相談があります。いつもの公園でお待ちしています」
送信者は新垣あやせ。
ティーン雑誌のモデル――こちらは事務所に所属した専属のモデルだが――を務めている、桐乃のクラスメイトで、『表』の親友だ。
彼女とは桐乃を通じて(?)知り合い、紆余曲折を経て、たまにこうやって「相談」を受ける間柄になっている。その相談内容というのは、大概は親友である桐乃に関する事である。
……当然、今日の「相談」も、最近の桐乃についてに違いない。
俺は少し考えたが、結局「了解」と短く返事を出すと、待ち合わせ場所の公園に足を向けた。
公園に着くと、
「お兄さん!」
俺の姿を見るや、制服姿のあやせ(可愛い)が、小走りで駆け寄ってきた。
「こんにちは、お兄さん」
輝かんばかりの笑顔(超可愛い)を俺に向けてくるあやせ。
片手を上げて、軽く挨拶をして近づく。
「よう。久しぶりだな、あやせ」
すると、あやせは何かに気付いたように「はっ」と息を呑み、
「……ひどい顔……」
俺の全身から力が抜け、ゆっくりと、しかしコマ送りのように膝と両手が地に着く。
「…………………………orz」
涙が溢れて止まらない。
恋人に振られ、妹からは「大嫌い」、更にその親友からは「酷い不細工」と言われた俺は、きっともう死ぬべき定めにあるのではないだろうか。世界の悲哀を一身に受けた気持ちになってしまう。
「……ぅうっ……うぉおおぉぉぉぉぉぉん」
子供のように声をあげて泣く俺に、
「お、おおお、お兄さん!?どうしたんですか!?」
「……ぐしゅっ。いいんだ、あやせ……正直に言ってくれて、ありがとう……うわぁぁぁぁぁ」
「わたしが何を言ったと!?」
「何言ってんだテメぇ!?さっき『酷い顔ですね、死んでください虫ケラが』って言ったじゃねぇか!?」
がばっと立ち上がって、涙ながらに抗議する俺。
「い、言ってませんよそんな事!?わたしはただお兄さんの顔色が悪いから、心配で……」
「へっ?そ、そうなの!?」
「そ、そうですよ。なのに、そんなに怒って大きな声出すなんて……」
むすっと頬をふくらませ、上目遣いで俺を見つめる天使(エンジェル)。
たまらず俺はあやせたんの柔らかな手を取り、真っ直ぐに目を見て囁く。我慢など出来る筈がなかった。……するつもりもないけどね。
「……すまないあやせ。俺の事を心配してくれてありがとう……愛してるぜ」
「……っ!い、いきなり何言い出すんですか!この変態!!っていうか、手をそんなに握りしめないでください!気持ち悪い!」
「――で、今日の相談ってのは?」
「へっ……?……あ、あなたって人は、いつもいつも……!!」
「ハハハ」
「『ハハハ』じゃないです!は、早く手を離してください!」
そう言ってラブリーマイエンジェルは、俺の手を振りほどいてしまう。……すべすべだったよ?
「ふぅ……まったく……わたし、真剣に相談があるんですけど?」
「悪かったよ。久しぶりに会えたのが嬉しくてさぁ、つい」
「……はぁ……もういいです」
あやせは俺に真っ直ぐ向き直り、「こほん」と咳払いした後で表情を曇らせて、
「実は、桐乃の事でご相談があります」
全身がぶるっと震える。
あの日泣いていた妹の姿がフラッシュバックした。
「桐乃が、どうしたんだよ」
俺の声は発した俺が驚くほど低いもので、震えている。
あやせは驚いたように俺を見を上げ、ここ最近の桐乃について語ってくれた。
あやせの話によると、最近の桐乃は、何か非常に落ち込んでいるそうだ。
話しかければぎこちない笑顔で答えるが、遠くから見ていると泣きそうな顔をしているようにも見えるし、ボーっと考え込んでいる事が多い。
そんな調子の癖に、部活やモデルの仕事の時は一生懸命で、必死で……そんな姿が、親友の目からは見ていて余りにも痛々しく、あやせは何とかしようと、自分を頼って欲しいと何度も桐乃に言ってくれたそうだ。
でも、桐乃は決してその気持ちに答えようとせず、「大丈夫」と繰り返すばかり。
話に聞く妹の姿は、今の自分と似たようなもので、しかしあいつの性格上、俺よりもボロボロになっているだろう事は想像に難くない。
――それがここ最近、俺が自分の臆病に負けて、見ようともしなかった桐乃の姿らしい。
「クラスやモデル仲間のみんなも、桐乃が頑張りすぎておかしくなっちゃったんじゃないかって、そう言ってて――でも、もうわたしにはどうする事も出来ないんです!」
本気で妹の事を心配してくれているあやせは、自身も相当追い詰められているらしく、声を震わせていた。このままじゃ、こいつまでどうにかなっちまうんじゃないかと心配になるほどに。
俺はあやせの頭に手を置いて、どうにか宥めようとする。
「桐乃の事心配してくれて、ありがとうな。お前っていう親友がいてくれて、あいつもちょっとは救われてるはずだ……でも、ちょっとだけ、肩の力抜いてくれよ。お前の事心配する奴だっているんだからさ」
目の端に浮かんだ涙を拭ってやると、あやせは「ぐしゅ」と小さく鼻を鳴らした。
俺は「とにかく座ろうぜ」と促し、二人で公園のブランコに並んで腰かける。
暫くして、「すぅはぁ」と深呼吸をしたあやせは、
「すみません……でもせめて、どうして桐乃が『ああ』なってしまったのか知りたくて」
「それで俺を呼び出したってわけか」
「はい。それに、桐乃の事なら、お兄さんにお願いすれば安心かなって」
「……俺、が?」
「もちろんですよ。桐乃、ああ見えてお兄さんの事、すごく頼りにしてる筈ですよ。だって、なんだかんだ言って――お兄さん?」
「――え?」
「大丈夫ですか?なんだかボーっとしてましたよ」
「……いや、その……最近寝不足でさ。受験勉強が忙しいもんだから」
「ウソですよね?」
「あ、やっぱ分かる?」
「ええ。わたし、嘘をつかれたら絶対に分かりますから」
「……………ハハ」
だからなんで断言出来るんだよ。
お願いだからそういう怖い事言うのやめてください。
「で、桐乃の事だけどさ」
あやせは何か言いたそうだったが、とりあえずコクンと頷き、俺の話を促す。
「あいつが元気ないだろうって事は、俺も知ってる――その理由までは分からないけどな」
これを言うと殺されるのではないかと一瞬躊躇ったが、
「でも、多分俺が原因なんじゃないかと思う」
「そう、ですか……」
「あれ?驚かねぇの?」
「いいえ。きっとそうなんだろうなって思ってましたから」
「え……?」
「何があったか教えてください。私の知らない最近のあなたと桐乃の事を。……言っておきますけど、包み隠さず、全部、ですよ?」
あやせの目から光彩が失われていた。
俺は出来るだけ淡々と、ここ数日のあやせが知らないだろう事を語り聞かせた。
夏コミの日の事から始まって、桐乃が彼氏として御鏡を家に連れてきた日の事。
黒猫に告白されて、桐乃に背中を押されて付き合い始めた事、そしてすぐに振られてしまった事。
そして、桐乃に泣きながら大嫌いと言われてしまって、今日まで目も合わせていない事を。
流石に黒猫と別れた理由までは語らなかったが、粗方話しつくした時、俺は情けなくも涙ぐんでしまっていた。
あやせが白いハンカチを差し出してくれる。
年下の女の子の前で涙を見せてしまったのが恥ずかしくて、
「すまん……情けねぇトコ見せちまった」
そう言うとあやせはクスッと笑って、
「そうですね……でも、よく分かりました」
「分かったって、何が?」
「やっぱり、桐乃が元気ないのはお兄さんのせいって事です」
「………それは、どういう意味だ?」
「その前に、ちょっと確認したいことがあります」
「何だ?」
「藤間社長のことですよ。エタナーの」
藤間美咲。化粧品ブランド「エターナルブルー」の女社長。
桐乃を海外に連れ出そうとした張本人であり、あいつに御鏡をけしかけてきたのも彼女だった。
今や、一連の騒動の元凶といってもいいだろう。
「確か、桐乃と二人で藤間社長に会ったんですよね?」
「ああ。説得するのに必要だって言われてさ」
「……駅前の喫茶店で?」
「そうだけど」
「それって、本当に藤間社長本人でしたか?」
……………はい?
「……何を言ってるのか、分からないんだが……」
「えっと……結論から言うと、お兄さんが藤間社長に会ったっていうのは、嘘です」
「お、俺は嘘なんて言ってないぞ!?」
「そうじゃありません。嘘を付いたのは、桐乃です」
ますます訳が分からない。桐乃が美咲さんに会ったと嘘を付いた……?なんだそりゃ。
……いや、待てよ。つまりあやせの言いたい事は、
「俺が会ったのは、偽物だったと?」
「はい」
「いや、でも俺、あの社長サンから名刺貰ったぜ?」
「それは……桐乃なら、藤間社長と直接会ってるんですから、名刺を用意する事くらい出来ます」
「……おいおい、あいつがわざわざ『偽物』用意して『本物』の名刺持たせたって事か?」
頭が痛くなってきた。
「それしか考えられませんよ。だって、その日あなた達が彼女に会っていたはずがありません」
「それはなんでだよ?」
「わたし、桐乃がスカウトされてるって聞いて、また海外に行かれてしまうなんて絶対嫌でした。桐乃本人も望んでいないようでしたし……もちろん、光栄だって喜んではいましたけど」
あやせは鞄から手帳を取り出して、ぺらぺらと捲る。
「ですから、わたしからも事情を説明して、何とか説得しようと思ってたんです。それで、藤間社長と、直接お話し出来ないかなって、動向を探ってたんです。……流石に駄目でしたけど」
まぁ仮にも大企業の社長だしなぁ。そう簡単にいちモデルとは会っちゃくれないだろう。
しかし動向を探ってって……何か裏で手まわしをしたらしい事は匂わせていたが、まさかマジだったとは……末恐ろしい女だ。
「……要するに、お前の掴んでいた情報と、俺達が会っていた事が食い違うって事か?」
「そうです。ていうか、おかしいと思わなかったんですか?エタナーの社長ともあろう人が駅前の喫茶店で待ち合わせって……普通はオフィスで会いますよね?」
「それは……言われてみりゃ、たしかにそうだ」
……どうやら、マジであれは偽物だったらしい。
てことは――どういう事だ?
「じゃあ、俺達は誰と会ってたんだ?」
「それは……わたしには分かりません。お兄さんには、何か心当たりないんですか?」
「俺ぇ?いや、あんな年上の知り合いは―――――――――――――――あ」
一人だけいた。しかもその人には「変装して人を騙した」前科があって――。
俺はすぐさまケータイを取り出して電話をかける。念のため登録しておいてよかった。
5、6回のコール音の後、
『……もしもし、京介くん?』
「どーも、お久しぶりっすフェイトさん。今大丈夫ですか?」
『ええ。構わないわよ』
「そーっすか。実はちょっとフェイトさんに聞きたい事がありましてー」
『私に?何かしら?』
「――女社長のコスプレってどう思います?」
プツっ。ツー……ツー……。……相変わらずのダメ人間ぷりだな。
プルルルルル……プルルルルル……ピッ。
『…………』
「説明してもらいましょうか」
『な、何のことだいっ。僕はこれでも忙しいんだがっ』
「フェイトさーん。素が出てますよー。めちゃくちゃ動揺してんじゃないっすか」
『……ぐっ』
「あんた、なんであんな事したんすか?」
『す、すまない……桐乃ちゃんに「このお金を貸してあげますから、何も言わずにあたしの言うとおりにして下さいっ」って頼まれて……悪気は無かったんだ。全部貧困が悪いんだっ』
「……じゃあ、桐乃に頼まれて……?」
『え、ええ。ねぇ京介くん。――あれって何だったのかしら?』
……そんなの俺が聞きてぇよ。意味不明過ぎんだろ。なんだってあいつはそんな事を?
俺の前に偽の彼氏連れて来て、その前は俺を偽彼氏にして、そもそも女社長も偽物で――どれもこれも嘘ばっかじゃねぇか。
桐乃――お前、何考えてんだよ。わかんねーよ。
『――相手の事をもっとよく見なければ駄目よ』
……何だよ黒猫。俺が悪いってのか?
冗談じゃない。こればっかりは、お前の言う事でも聞けねぇよ。
だって――こんな意味不明な行動を、どう理解すりゃいいって言うんだよ。
フェイトさんに挨拶をして、電話を切る。
もう分かってるだろうけど、あやせに報告しておくことにした。
「ちょっとした知り合いでさ。桐乃に頼まれて、やったんだと」
「そうですか。これでハッキリしました」
「あぁ。どうやらあれは偽物だったらしいな」
「……そうじゃ、ないです……」
「?」
今更何言ってんだよ。
「どうしてだと思います?」
「――え?」
先日も誰かにそんな風に言われた気がした。
「どうして桐乃があんな事したと思うかって、言ってるんです」
あやせの言い方は、まるで彼女にはもう分かっていると言わんばかりだ。
「お前は……どうしてだと思うんだよ」
「桐乃が本気だったからです」
「本気って、何が」
そう聞き直すとあやせは一瞬ぎゅっと目を瞑り、小さく何かを呟いた。
そして、
「桐乃は本気だったんですよ。本気で、お兄さんと恋人になろうとしたんです」
心臓が、跳ね上がる。
「……な、何言って……」
「おかしいじゃないですか!誰だって気付きますよ!藤間社長が自分が主催のショーを抜けてまでデートの監視に来るとか、そんな事が本当にあると思ってるんですか!?友達と大喧嘩になってまで、御鏡さんに頼んで嘘の彼氏になってもらって――どうして桐乃がそんな事するか、お兄さんは真剣に考えたことがあるんですかっ!?」
――頭の中が、めちゃくちゃだ。
なのに、不可解だったさまざまのことが組み合わさっていく。
『――ええと……桐乃さんは、お兄さんに、気付いて欲しかったんですよね?』
どうして桐乃があんな騒動を起こしたのか。
『……だけど――同じくらい、あなたの妹の事も大切なのよ』
どうして黒猫が俺と別れたのか。
そして、俺の妹が――
『あたしもあ兄貴のコトね好き……かも』
『――あんた、あたしの彼氏になってよ』
「……きり、のっ…………」
俺の……大バカ野郎。
何だって言うんだ。ふざけんじゃねぇぞ。
シスコンだと?妹を大切にする兄貴だと……?
……一体俺が、あいつの何を理解ってやれてるっていうんだ。
この1年で、こんなにも桐乃と関わってきたっていうのに。
結局俺は、あいつのことなんざ、なんにも理解しちゃいなかった。
いや、違う。理解しようなんて、してこなかった。
俺はただ怯えていただけだ。
妹は俺を嫌ってるんだから――そう思い込んで、俺は桐乃から逃げてた。
桐乃とまた話せるようになって、それが嬉しくて――なのに、それをあいつに知られるのがたまらなく怖くて、それを認めるのが惨めで、ずっと自分の気持ちまで騙してた。
『――相手の事をもっとよく見なければ駄目よ』
ようやく、黒猫の言いたかった事も理解してやれた。
でも――だからって、今の俺にどうしろっていうんだ。
俺の気持ちは、今やもう『そんなもの』とっくに通り越している。
あいつの気持ちが本当に『そう』なのだとして、答えてやることだって出来るんだ。
だけど、俺と桐乃は、家族なんだ。
俺達は血のつながった兄妹で、俺はあいつの兄貴なんだ。桐乃は妹なんだよ。
あいつの輝かしい将来はおろか、俺の平凡だろう将来まで、台無しになりかねない。
親父もお袋も、きっと悲しませてしまうだろう。
そんな選択を俺にしろっていうのか!?そんな覚悟が、俺にあるのかよ!?
何よりあいつが、俺のせいでまた傷つくかもしれないのに。
「お兄さん」
はっとして顔を上げる。俺は正直あやせの事を忘れてしまっていたのに、彼女は心配そうに声をかけてくれた。
甘えてしまいたい。縋りつきたい。そんな衝動に駆られて、
「……あやせ……俺はどうすればいいと思う」
否定されてしまいたくて、ただこの苦しみから逃げたくて声を出す。
なのに、そんな情けない俺に、あやせは困ったような――けれど穏やかな顔で言う。
「らしくないですよ。いつものあなたなら、もうとっくに桐乃を助けに行ってるはずです」
「――え……?あ、あやせ!?」
「今更ですけど、わたし、本当はお兄さんが変態なんかじゃないって、もうずっと前から気付いていました。あの時はわたし達が仲直りするために泥をかぶってくれたんだなって」
「……そうだったのか」
「ええ。なのに、どうしても桐乃の趣味のことが納得出来なくて――ずっとお兄さんの優しさに甘えていました。散々ひどいこと言ってしまって、本当にごめんなさい」
「いいんだ、あやせ。俺の方こそ、ずっと騙していてすまなかった」
背筋を伸ばして謝罪するあやせに、逆に申し訳ない気持ちになってしまう。
なんだかんだと言いつつ、俺を頼りにしてくれることが嬉しくて、楽しかった。
だから、あやせの誤解が『偽物』だったとしても、怒る気持ちなんか欠片もない。
けれど今や彼女の誤解は『本物』になりつつある。
「お兄さん……あなたは、桐乃のこと、どう思っているんですか?」
核心を付く問いかけだった。
……言えるはずがない。
あやせに殺される、なんていつもの冗談とは――必ずしも冗談ではなかったが――違う。
俺と桐乃がお互いに『そう』なのだと知って、親友の彼女が傷つかないはずがない。
だから、あやせにだけは言うわけにはいかない。
ところが、彼女は優しく俺の背中を押してくれるのだった。
「きっと今、それを誰かに話すことがあなたと桐乃には大切なことなんです。ですから――」
なんとなく、あやせの言いたいことが理解できた気がした。
俺の願望なのかも知れないけれど、その気持ちが嬉しくて――俺の心は決壊する。
「……俺……俺は、桐乃が大切だ。――ああ、そうだよ!俺はあいつが大切だ!桐乃が俺のところからいなくなるなんて、他の誰かに取られるなんて、死んでも御免だ!!何がなんでも絶対に手放したくない!よく聞けよ、つまり俺は――――――」
最後の一言は、あやせによって阻まれてしまった。
一瞬ドキッとしたが、俺の唇に指をあてたあやせは、はにかみながら、
「……よく分かりました。だったらその先は、桐乃本人に言ってあげてください」
「あ、あやせ……?」
「ほんと、お兄さんってばとんだシスコンですね。でも、不思議です。わたしにはそれが悪いことだなんて、ちっとも思えないんですよ」
今だけは彼女が本物の天使のように見えた。
その満足そうな、どこか寂しそうな笑顔は、俺の心を照らし、力強い勇気を与えてくれる。
俺達には、こんな頼もしい味方がいてくれるんだと、そう思えた。
だから、この俺が腹を括らずにいられるわけがない。
立ち上がり、あやせに別れを告げる。
「行ってくるよ」
「いってらっしゃい。桐乃のこと、お願いしますね」
にっと、久しぶりに心から笑って、俺は走り出した。
あやせと別れた俺は、今桐乃の部屋の前に居る。
――考えなければいけないことが、山ほどある。これまでのこと、この先のこと。そして今この時のこと。
なのに心の中はめちゃくちゃで、何も整理なんか出来ちゃいない。
あいつに何を言おうかなんて、それすら思いついてない。だけど結局、俺にはこうすることしか出来ない。色んなものをぐちゃぐちゃにしたままで、いきおいだけで突っ走る。それもきっと、これが最後だろう。
ばんっ!と勢いよくドアを開く。
ベッドでうつ伏せになっていた桐乃が驚いて身を起こした。
そんな妹のところへ、ずんずんと早足で近づく。
「ちょ、な、なんなのよイキナリ!?」
「桐乃――お前に話がある」
「は、はぁ!?ノックもせずに押し入って、なんなの!?意味わかんないんですケド!?」
「うるせえよ!話があるって言ってんだろーが!」
びくっと怯えた様子の桐乃へ、今度は静かに、
「……いいから聞いてくれ。大事な話なんだ」
「な、なんだっつーのよ……………あーもう!わかったから、座んなさいよ!」
桐乃はベッドに腰掛けたまま傍らのクッションを自分の前に叩きつける。
俺はその上にどかっとケツを落として胡坐をかき、両ひざに手をついて切り出した。
「おまえ、なんで俺と黒猫が別れたのか知りたいんだったよな?」
さっき以上に怯えた反応をする桐乃。
可哀想だが、止まってやるつもりもない。
「俺はさ、あいつにフラレちまったんだよ」
妹の眉間にしわが寄せられ、不審の瞳が俺を見つめる。
言ってる意味がわからない――そう言いたげだった。
「……なによそれ。黒いの、あんたのこと好きだったんでしょ……?」
「ああ。それは間違いないと思うぞ」
「――じゃあなんでよ。あんただって……あいつのこと、好きなんでしょ!?」
久しぶりに妹の顔をジッと見る。端正な顔には隈が出来ていて、少しやせたように見えた。
あやせがが指摘していたように、今のこいつはボロボロだ。
そうさせたのは――他ならぬ俺なのだろう。
「ああ。好きだよ」
「……っ。じゃあ、なんで別れたの!?まだ付き合ってちょっとしかたってなかったじゃん!デートだって1回しかしてないのに!……別れる理由なんてどこにもないでしょ!?」
「――理由ならある。あるに決まってんだろ」
「だから!それを言えって言ってんのよ!」
「……俺が……」
「……俺が、黒猫のことを一番に見てやれないからだ。あいつはそれじゃあ納得できないんだとさ。そんで、フラレた。」
「はぁ?な、なによそれ……」
「意味わかんねぇか?――正直、最初は俺もそう思ったよ。だけどあいつは言うんだよ。まず自分の気持ちにけりつけて出直せってな。そう言って俺の背中を押してくれたんだ!だから――!」
……ここから先は一方通行だ。言葉に出せば、もう絶対に戻れない。
結果がどうあれ、もう桐乃とは普通の兄妹ではいられないだろう。
もしかしたら、このまま2度と口を聞かないようになるかもしれない。
この1年のこいつとの日々も、失われてしまうかもしれない。
それは……とても恐ろしい。正直、めちゃくちゃ怖えぇよ。
やっと話せるようになったんだ。この1年で、たくさんのものを築いてきたんだ。
――失いたくねぇよ。桐乃が離れて行っちまうなんて、そんなの……。
俺はきっとどこかで桐乃の気持ちが信じられなくて、臆病風に吹かれてしまう。
もしかしたら妹も、ずっとこんな気持ちを抱えていたかもしれないってのに。
……じゃあ、なんでそんなヘタレの、情けない俺は、今ここに居る?
――決まってんだろ。俺がひとりでここまで来たわけじゃないからだよ!
黒猫は俺の背中を押してくれた。俺も桐乃も同じだけ大事だって、そう言って送り出してくれた。
あやせだってそうだ。自分の信条曲げてまで、俺を許してくれたんだ。
二人が、そうしてくれたのは、いったい誰のためなんだ!?
俺以外の何者も、決してあいつらに報いてやれないんだよ!
だから、俺は逃げない……あいつら二人裏切ってまで逃げるなんて、出来るわけがねえ!
心の勢いに任せて立ち上がる。驚く桐乃の肩を掴んで、
「――俺は言うぞ。桐乃!よ―――――っく聞けよおおおおお!!」
力の限り、叫んだ。
「俺はおまえが好きだあああああァーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」
呆けてんじゃねぇぞ桐乃――まだ終わってねぇ!こんなんで足りるか!!
「俺はおまえが好きだ。大好きだ!お前が傍にいてくれないと生きていけないくらい、おまえが大好きだ!どんなすげぇ奴にだって、おまえを渡したくない!言っとくけど、嘘でも冗談でもねぇからな!いいか、もう一度言うぞ!俺はおまえが大っ好きだあああああああ!!」
一気に捲し立てて、軽く酸欠になる。
緊張のせいか、それとも不安のせいか、息が苦しい。
ぜぇぜぇ言いながら桐乃を見ると、ただ目を丸くして、信じられないといった顔をしていた。
「――おい、聞こえ、てんのか?」
妹はぴくっと身を震わせ、
「……と?……ほんと、に?ほ、本気なの?どういうつもりよ、あんた……」
「どうもこうも、言ったとおりだ。俺はおまえが好きなんだよ!愛してると言ってもいいね。だからもう、絶対ほかの奴になんか渡さねーって、そう言ってんだ!」
「……!で、でも……だって、あたしたち、……兄妹だよ!?前はあんたもそう言ってたじゃん。気持ち悪いみたいな顔して、なに言ってんだーって……なのに……」
そこで桐乃は勢いよく立ちあがり、胸倉を掴んで、至近距離で俺を睨みつける。
ぎりぎりと掴まれた襟が、やけに苦しかった。
「なんなのよあんたは!あたしにどうしろっつーのよ!?あんたにとってあたしは妹なんでしょ!そうだよね?だから優しくしてくれて、心配してくれるんだよね……?今までどんなにわがまま言っても、ずっと助けてくれたのだって――全部、あんたが兄貴だからでしょ!?」
「……桐乃……」
いつかのように、勢いに任せた激情が俺の胸をひどく叩く。
息を荒げた妹の鋭い視線が、俺を突き刺している。
ふと、桐乃は俺の襟をつかむ力を弱め、
「ねぇ、『兄貴』」
久しぶりに、俺をそう呼んだ。
「だいぶ前にも言ったけど、あたしはあんたに感謝してるよ。『兄貴の義務』だったとしても、優しくしてくれて、心配してくれて――すっごく、嬉しかった」
「だからね、もう兄貴を困らせるのはやめようって……あたしも素直に『妹』やってこうって、あたしはそう決めた」
「……それで、黒猫に『告白しろ』なんて言ったのか」
「うん。喧嘩ばっかしてるけどさ、――あいつって友達だし。あんたらが好きあってるなら、それが一番、みんな幸せになれるって思ったから。もう何回も言ったかもだけど、あたしにとってはオタクやってるのも読モやってるのも、ぜんぶ大事。……同じように、どっちの友達も好きだから」
「……おまえは、どうするつもりだったんだよ」
「さっきも言ったでしょ?あたしは『妹』やってくつもりだったの。たまにあんたたちのジャマして、二人に子供が出来たら可愛がってあげて――そういうのも悪くないかなって」
ふと、ありえたかもしれない未来を想像する。
俺と黒猫が結婚して、子供が生まれて――あいかわらず生意気な妹もそこにいて、みんなで家族になって笑い合える、そんな俺達の将来。
それは誰もがうらやむくらい普通の、でも、かけがえのない日々。
「……楽しいだろうな、きっと」
「ね。あんたもそう思うでしょ?前はバカにしてたけどさ、やっぱ普通って大事だよね」
そんな、らしくないことを言って笑う妹を、俺は睨みつける。
「悪いな桐乃――そんな将来は、却下だ!」
「……え……?」
否定され、桐乃は頬を張られたように、目をパチクリさせる。
「俺はもう、黒猫とは恋人になれない。俺が好きなのは、お前だからな」
「―――――っ」
桐乃が息をのむ。俺の襟も離してそのまま俯き、
「……じゃあ、あいつはどうすんのよ?あんた言ってたじゃん。あいつは、あんたのこと、好きなんだよ?あたしたちが――なんて、黒いのはどう思うのよ?また喧嘩になって、今度こそダメになっちゃったら、沙織に何て言うの?あたしは……そんなの絶対イヤだよ……」
サークルクラッシャー……先日は、沙織からそう蔑まれる結末を回避できたんだっけ。
それは、全方面大事にするにはそれしかないって、思いつめた誰かさんのおかげだった。
だから桐乃の心配はわからないでもない。
だけど――だからこそ、俺は腹が立った。どうして――
「てめえ――もっと友達を信じろよ」
「………え?」
「どうして、黒猫を信じてやれねぇんだって言ってんだよ!」
「は、はぁ?あんた、なに他人事みたいに――」
「あいつはなぁ!!」
「――黒猫は、言ってたよ。お前のことが大好きだってな!お前のことを妹みたいに思ってるって、そう言ってたんだ!」
「……あいつが……?」
桐乃の頬を涙が伝った。その涙は拭ってやらず、
「妹ってのはな、生意気で、ムカつくし、手がかかる厄介なもんなんだよ!――でも心配で、心配でかわいくてしょうがない、ほっとけないヤツなんだよ!だから、黒猫がそう思ってる限りお前たちの仲がどうこうなったりなんてあるわけねぇ!」
「――あ、あんたがそーいうこと言うワケ!?自分は、ずっとずっと、あたしのことほったらかしにしてたくせに!」
「……そ、それについては……何て言って謝っていいかわからん。でもな、あいつは俺とは違うだろ。あいつは本当に優しいやつなんだよ。お前だって知ってんだろ!?」
「そ、そんなの……」
「おまえ言ってたじゃねえか。あいつは友達だって!だから応援してくれたんだろ!?おまえだってあいつのこと、大好きなんだろ!?」
「……!」
「だったら――頼むよ。黒猫のこと、信じてやってくれ」
そうでなければ、彼女は本当に報われない。
死ぬまで隠し通すと誓ったあの一言が――その想いが台無しになってしまう。
暫くの沈黙の後、桐乃はぐすっと鼻を鳴らして、
「……わかった。あいつのこと信じる」
「――そっか。よかったぜ」
「でもあんたのことは許してやんないから」
「…………わかってる」
俺が何年もこいつを無視していたことを、今さら許してもらおうとは思っちゃいない。
それどころか、俺にはもっとたくさん、桐乃に謝らなくちゃいけないこともある。
そう思って口を開きかけたところに、
「はぁ?なにそれ?あんた諦めんの?あたしに許してほしいと思わないワケ?」
懐かしくなるような見下した態度で桐乃はそう言った。
罵倒されているはずなのに、なぜか嬉しくなって、
「ぷっ……。なんだよ、どうしろっつーハナシ?聞いてやるから言ってみろって」
「……ん、じゃぁ…………」
ぽすっと頭から俺の胸に倒れこんでくる桐乃。
なんとか支えてやると、背中に手を回して抱きしめるような形になってしまった。
「~~~~!」
桐乃の髪から甘い香りがして、柔らかな感触に胸がはじけたように高鳴りだす。
すぐ間近から、潤んだ上目遣いで桐乃が見上げてきた。
「あたしのこと、今までの分も、これからずっと、ずうぅ~~~~っと大事にすること。そしたら、しょうがないから許してあげなくもない」
「お、おまえ、それって……?」
桐乃の顔が赤くなっていくと、その熱にあてられて、こっちまで顔が熱くなってきた。
不安そうな震えた声で、
「ね。あんた、これからはあたしの彼氏だよ?い、いいんだよね……?」
「―――!…………おう」
「っ……じゃあ、二人きりのときは、『京介』って呼ぶけど、いい?」
「そんなの、好きにしろよ」
「で、デートはさ、こないだみたいのじゃダメだかんね。ちゃんとしてよ?」
「……努力する」
「……め、メールとか、電話とか!すぐ返事してよっ……!?」
「……………………おう」
「えと……あんま、ほかの女にデレデレしないでよ」
「わーかってるって!」
いきなりめんどくせぇな!しょうがないけどさ!
「……他には?今の内に気のすむまで全部言っとけよ」
どうせ後になったら恥ずかしすぎて死にたくなるんだ、今の勢いのまま言わせるのがいいだろう。
「え、と………じゃあ…………」
桐乃の吐息が震える。それは、緊張なのか、それとも不安なのか。
悔しいけれど、俺はまだまだ信じちゃもらえてないのかもしれない。
腕の中の桐乃が、俺の服をきゅっと掴んで顔を上げる。
そして俺に、最後の審判を下した。
「――最後に確認するけど、あんたは、あたしのことが好き。『妹』ってだけじゃなくて、『あたし』が好き……………間違い、ない?」
もう2度と平凡な日常は帰らないと、俺の胸の鼓動が警鐘を鳴らす。
だけど、そんなんじゃ、全然足りない。
今のこの俺が、そんなもんで止まってやるかよ……!
「――――――ああ。俺は『桐乃』が好きだ」
ただ、信じて欲しくて――ありったけの愛しさを込めて、再び告白した。
強張っていた桐乃の顔がふやっと緩み、眉が下がった。
「………………………………………う、」
大きな瞳から、宝石の一滴が零れ、
「うわああああぁぁあぁああああああぁああああ!!グス、ぅううわああああああ……」
桐乃は大声をあげて泣いた。再び俺の胸に顔を埋め、今度は完全に抱きついて。
幼子のようになきじゃくるその姿に、面食らってしまい―――やっと、妹のことをわかってやれた気がした。
だからか、ここまで続いてきた俺の勢いも削がれて、急に照れくさくなってきて、
「……お、おまえ……泣くなよ、ばか」
そのくせ嬉しくって、もうなにも考えられない。
俺はおろおろとばかりもしていられず、泣いている桐乃の頭を撫でて、なんとか宥めようとした。
でもなかなか泣きやんではくれなくて、しょうがねぇな、と愛しさに任せてぎゅっと抱きしめる。
腕の中の妹を見て、俺は考える。
これからのこと。俺と桐乃の、将来のことを。
――きっと楽しいことばかりじゃないだろう。どうあっても、俺達がお互いをどう思っていても、俺と桐乃は血のつながった実の兄妹なのだから。
だけど、もう二度とこいつをこんな風に泣かせたくない。その気持ちがあれば、きっと俺は諦めないでやっていける。いっしょに生きていけるってんなら、何だってやってみせるさ。
平凡な日常にそっと別れを告げ、俺はこれからの日々に思いを馳せる―――――――。