夏休みの、とある日。
部活から帰宅した俺を出迎えてくれたのは――天使のように可憐な微笑みをたたえた、あやせだった。

「おかえりなさい、お兄さん。……待ってましたよ」
「あ、あやせ……!?」

まるで同棲している恋人のように、頬を染めながら嬉しそうに呟くあやせ。
な、なんであやせが俺の部屋に……夢?夢なのか?
どうして俺の部屋に居るのか。そもそもどうやって俺の部屋に入ったのか。
――いろいろと聞きたい事があるんだが、まず最優先で問うべきは……『これ』だろうな。

「あの、あやせ……さん?」
「なんでしょうか?」
「……なんで俺のベッドに寝転んでんの?」

まるでいつぞやの黒猫のように、あやせはさも当然といわんばかりの平静さで、俺のベッドに寝転んでいた。
忘れてはいけないが、こいつは俺の事を「近親相姦上等の変態兄貴」と思い込んでいるのである。
そんな相手のベッドに寝転ぶなんて、いつものあやせからは想像も出来ない。
俺があやせのベッドに潜り込んだ時なんか、手錠で殴殺されそうになったしな。

「……はっ!?」
「き、急にどうしたんですか?」
「いや――カメラでも仕掛けられてんのかなぁ、って」
「そんなわけないじゃないですか!?」
「ご、ごめん!」

がばっと上半身を起こしながら気炎を吐くあやせを見て……俺はようやく、目の前のあやせが本物だという確信を得た。
実は「ニセモノなんじゃないか」という疑問を捨て切れていなかったんだが、このおっかなさは間違いなく本物だ。
この天使のようなかわいらしさと、悪魔のようなおっかなさが同居している少女は――
――俺が大好きな、新垣あやせ以外に、ありえない。

「お兄さんの部屋にカメラなんか仕掛けて、どんな意味があるんです?」
「セクハラの現場を押さえて、裁判の時の証拠にでもするのかなぁ、と」
「……セクハラするつもりなんですか」
「おいおい、勘違いすんなって。前にも似たようなことを言ったと思うが、俺がお前にしてるのはセクハラじゃない。……心を込めた、真剣なアピールなんだぜ」

 ビーーーーーーーーーーーッ!

「待て待て待てェェェェェェッ!?」

家の中で防犯ブザーを鳴らすんじゃねえよ!?
家族が居なかったからいいものを……親父が居たら、現行犯逮捕されてたぞ!俺が。
あの堅物の親父のことだ。息子を自宅で現行犯逮捕なんてしてみろ。
次の日には、頭を丸めて辞職願を提出してる姿がありありと想像出来る。
桐乃に見つかりでもしたら……想像もしたくねえ。

「我が家の平穏のためにも、ぜひとも勘弁してください!」
「ちょっ……土下座なんてやめてください!?」

自分の部屋で女子中学生に土下座している俺を見て、あやせは引き攣った表情を浮かべながらドン引きしていた。

「……こんなつもりじゃなかったのに」
「え?」
「なんでもありません」

拗ねたように口を尖らせながら、あやせはぷいっとそっぽを向いてしまった。

「そ、それで、今日はどうしたんだ?また桐乃のことで相談か?」

あやせが大嫌いな俺にわざわざ話しかけてくる時は、大抵が桐乃絡みだ。
たまーに加奈子絡みだったりもするが……さて、今日はどっちなんだろうな。
俺としては、あやせからの個人的な相談でも一向に構わない。
というか、むしろそうであって欲しいくらいなんだが……無いよなぁ、それは。
あやせ個人の悩みなら、俺なんかよりもまず、桐乃に相談するだろうし。
拗ねた表情のまま、あやせは逡巡するように視線をさまよわせ……最後にちらっと俺を見た。
天使のようなかわいらしい仕草に胸が締め付けられるような愛おしさを覚えつつも、表情には出したりはしない。
また「通報しますよ!」とか言い出されたら、面倒なことになる。
あやせたんマジ天使。あやせたんマジ天使、と心の中で繰り返し呟きながら、俺はあやせが話を切り出すのを辛抱強く待ち続けた。

「……あの、ですね。お兄さん」
「ん?」
「お兄さんは……私のこと、あんまり好きじゃありませんよね?」
「……は?」

なんで?てか、どういう会話の流れなの?

「私、お兄さんにはいつも怒鳴ってばかりで……蹴ったり、手錠をかけたり。そんなことばっかりしてるから、嫌われてるのは分かってます」
「……なあ、あやせ」
「なんですか?」

よく見ると、あやせは大きな瞳にうっすらと涙を浮かべていた。肩も小さく震えている。
それが――俺の勘違いかもしれないが、『俺に嫌われている』という思い込みから来ているものだとしたら。

「よーく聞けよ?」

――全力で否定しなきゃ、嘘だろ。
違ったら違ったで、その時だ。
思い上がった勘違いをしてしまった変態として、甘んじて罵りを受け止めてやるぜ。

「俺は……お前のことが、大好きだよ。怒鳴られても、蹴られても、手錠をかけられても。そのくらいでお前を嫌いになんかなったりしない」
「どうしてですか。……私、お兄さんにそこまで言われるようなこと、なんにもしてないです」
「俺はお前になにかをしてもらったから好きになったんじゃない。真面目で、友達想いで、ちょっと思い込みが激しくて、天使のようにかわいくて……なんにでも一生懸命なお前だから、大好きなんだ」

うぉぉ……顔から火が出そうなくらい恥ずかしい。
エロゲでも、ここまでこっ恥ずかしい台詞は聞いた事ねえよ。
いつもの冗談交じりのセクハラとは違って、割とマジ入ってる台詞だった。
なもんで、「スルーされたら凹むなぁ」という気持ちと、「また、そんな冗談ばっかり……」とか言われて流して欲しいという気持ちが、頭の中でない混ぜになって、ぐちゃぐちゃになっていた。
自分でも、あやせにどんなリアクションをして欲しいのか分からない。
ただ……あやせの涙さえ引っ込んでくれるなら、それで充分だった。
いつになく重い空気の中、見つめあうこと数秒。もしかしたら、数分だったのかもしれないが。
時間感覚が完全に麻痺し、俺の精神があやせの視線を受け止め続ける事に限界を感じ始めた頃。
あやせが、静かに口を開いた。

「お兄さん……ありがとうございます。お兄さんがそう言ってくれるなら、私は……」

小さく息を呑んだあやせは、さっきまでの会話の流れにそぐわない……
今の俺にとっちゃ聞きなれた感すらある「あの台詞」を口にした。

「……お兄さん、ご相談があります」
「落ち着いたか?」
「はい……すいませんでした」

ようやく嗚咽が収まったあやせは、俺が持ってきた麦茶を飲みながら、小さく息を吐いた。
真っ赤になった目が、かわいそうなくらいに痛々しい。

「相談、だっけな。どうしたんだ、いったい」

今日のあやせは、様子がおかしい。……いや、頭がおかしいのはいつもの事だが、今日のは少し違う。
弱々しくて、壊れてしまいそうな危うさ。
『どうしてかは分からない』が……もしそれが相談とやらの内容に関係あるものだとしたら。
今回の相談は、なかなかにヘヴィなものになりそうだ。……まあ、毎度の事だけどな。

「実は、ですね……」
「ああ」
「……私、好きな人が出来たんです」
「…………え」

い、いま、なんて……?

「好き……大好きなんです。その人のこと」
「そ……そう、なんだ」

あまりのショックに、声が裏返ってしまった。
心臓が痛いくらいに跳ね回り、急に周りから空気が無くなってしまったかのように息苦しくなる。
かろうじて表面だけでも平静を保てたのは、完全に見栄だった。本当は叫びたかった。
まだ見ぬ「あやせの好きな人」とやらに対する殺意が、マッハで膨らんでいく。

「でも、その人は私の気持ちに『ぜんぜん気付いてくれない』んです。……だから、で、デート……に誘ってみようかな、なんて……きゃぁっ!?ど、どうしていきなり泣いているんですか!?」
「な、なんでもねえよ!……っ、く」

俺の……俺のラブリーマイエンジェルが、俺じゃない他の男の事を想って、恥ずかしそうにもじもじしながら「デートに誘ってみようかな」……だと。
我慢なんてしてられっか!くそ……くそっ!殺してやる……っ。その男、絶対に殺してやる…………うぅ。

「そ、そんなに嫌なんですか?私が……他の人とデートするのが」
「ああ、嫌だ」
「ど、堂々と言わないでください……変態」

頬を染めながら、どこか嬉しそうに俺の方を見るあやせ。
その表情は、恋する乙女そのもので……俺は体中の血液を吐き出して死んでしまいそうだった。

「それで、ですね。お兄さんに相談というのが……デートの練習相手になってもらえないかなぁ、と」
「断固拒否する」
「即答っ!?」
「当たり前だろ。デートならともかく、『デートの練習』なんて……やってられっか」

我ながら、まるでガキのような拗ねっぷりだった。ふん、構うもんか。
どうせ元から嫌われてるんだし……あやせには、大好きな人とやらが居るみたいだしな!
今さら幻滅されようと、痛くも痒くもねえよ。

「……なら、それでいいです」
「?」
「だから、デート……で、いいって、言ってるんです」
「……なあ、あやせ」
「は、はいっ」
「よく分かんねえんだけどさ。なんでそれを俺に頼むんだ?」

考えてみると、おかしくね?

「どういう意味ですか」
「だってさ。お前ってば、俺の事大嫌いだろ。それに、そういう事を頼むんだったら、もっといい相手が居るんじゃねーの?自慢じゃないけど、俺はデートの経験なんて無いからな。俺と練習しても参考にならないと思うぜ」
「この間、桐乃とデートしてたじゃないですか」
「あれはノーカンだ。妹とのデートは、デートじゃねえよ」

というか、その事はなるべく早く忘れたいと思っているので、あまり蒸し返さないでください。

「とにかく、だ。はっきり言うけど、俺はお前が他の誰かとデートするのなんて嫌だ。相手の男をぶっ飛ばしてやりたいくらいにな。……でも、俺にはそんな事する権利なんてねえからさ。……なるべく邪魔しないようにするから、お前も、俺の傷を抉るようなことはやめてくれ」
「……っ」

あやせは『もどかしそうに』歯軋りしながら、俺を恨めしそうに睨みつけてくる。
簡単に言う事を聞くだろうと思ってた相手が駄々をこねるもんだから、苛立っているのかもしれない。

「ふんっ、ならいいです!お兄さんがそこまで言うなら……その辺に居る適当な男の人に声をかけて、練習相手になってもらいますから!」
「なっ!?なんでそうなるんだよ!?普通に他の知り合いに頼めばいいだろ!?」
「うるさいうるさいっ!もういいです!お兄さんに相談したのが間違いでした。名前も知らない男の人と、手を繋いだり、き、きき、キスとか……え……ええええ、えっちな……こととかしちゃいますから!」

いつぞやの誰かと似たようなことを言いながら、あやせは自分の台詞で顔を真っ赤にしていた。

「アホか!デートの練習で、本番以上のことしてどうする!?」
「なら、お兄さんが練習相手になってください!」
「めちゃくちゃ言うな!」

俺とあやせは至近距離で顔を突き合わせ、はあはあと荒い息を吐く。
いつもなら赤面してしまうような距離だったが、今はそれどころじゃない。

「……どうするんですか、お兄さん?」

あやせの瞳は、どう見てもマジだった。
くそっ……脅迫じゃねえか、これ。

「……はぁ。分かったよ」

降参だ。やっぱり俺は……こいつのことが、どうしようもなく大好きらしい。
『デートの練習』なんていう茶番ですら、他の男とはさせたくないくらいに。

「あ、ありがとうございます、お兄さん!」

『いつか』と同じ、天使のような笑顔を浮かべるあやせ。
正直、微妙な心境だった。あやせに喜んでもらえるのは嬉しいが……その喜びが向けられている先に、俺は居ない。
はぁ、なにをやってんだろうな、俺は。

人の流れが多い、日曜の駅前。
あやせが待ち合わせ場所に指定してきたのは、以前の偽デートで桐乃が指定した場所と、同じところだった。
麻奈美は俺達がここで待ち合わせていたことを知らないはずだし、桐乃があやせに俺とのデートを話したりするとは思えない。
そうなると、この符合は偶然なんだろうが……やっぱり、駅前ってのは待ち合わせのテンプレみたいなもんなんだろうな。
腕時計を見ると、時間まではまだ三十分近くあった。
どこかで時間を潰そうかと思ったが、桐乃はけっこう早めに待ち合わせ場所に現れたし……
余計な動きはしない方がいいかもしれない。
そんな事を考えながら、腕時計から前方へと視線を戻そうとしたとき、

「あ、お兄さんっ!」

涼やかな声が、駅前に響いた。
小走りでこちらへ駆けてくるあやせに、周囲の視線が集中する。
あやせが向かう先に居る俺を見て、何人かは驚いたような表情を浮かべていた。

「ごめんなさいっ、お待たせしましたか?」
「いや、俺も今来たばっかりだよ」

なんだかカップルっぽい台詞のやりとりに、俺とあやせは同時に赤面してしまう。
……しょっぱなからこんな調子で、今日一日、俺は耐えられるんだろうか?
のぼせて死んでしまうかもしれない。

「……今日はよろしくお願いしますね」
「お、おう」
「そ、それじゃ、さっそく行きましょうか」

頬を染めたまま先に歩き出そうとするあやせ。

「……なあ、あやせ」
「なんですか?」
「ちょっとした提案なんだが……今日は『お兄さん』って呼び方、やめないか?」
「え?」
「どうせだったら、なりきった方がいいだろ?」

桐乃だって、俺のこと「京介」って呼ぼうとしてたし。
雰囲気を出すんだったら、そうするべきじゃないだろうか。
……まあ、半分くらいは俺の個人的な願望であることは、否定しない。

「で、でも……」
「あ、嫌ならいいんだぜ?無理にとは言わねえからさ」
「い、嫌じゃないです。……そうですね。そっちの方がいいかもしれません」

普段は透き通るように白いあやせの肌が、ぱっと見ただけでも分かるくらいに赤く染まっていく。
緊張した面持ちのまま……あやせは小さく呟いた。

「今日は……よろしくお願いしますね、京介……さん」
「お、おう」

まるでナイフで刺されたかのように痺れる俺の心。
やばい。マジ可愛い。あやせたん、マジ天使。

「あのですね、おに……き、京介さん。私からも提案があるんですけど……」

あやせはもじもじとしたまま、『提案』とやらをなかなか言い出そうとしない。

「今日は遠慮するなって。お前のためなら、多少の無理難題は聞いてやる」
「ま、またそんな……本当ですね?なら……」

頬を染めたままのあやせは、おずおずと右手を差し出してきた。

「ひぃっ!?」
「な、なんで逃げるんですか!?」
「だ、だってお前!多少の無理難題は聞くっつったけどさぁ!こんな街中で手錠は、さすがにありえねえだろ!?」

手錠つけたまま女子中学生とデートなんてしてたら、絶対に通報されるよ!
お前にならまだしも、警察に本物の手錠なんてかけられてたまるか!

「違いますっ!?お兄さんは私をなんだと思っているんですか!?」
「今までお前にされてきた事を思えば、むしろ自然なリアクションだという自負があるんだが」

その天使のように愛くるしい仕草に、何度騙されてきたことか。
あやせが俺にかわいいところを見せてくれるのって、たいがい俺をはめようとしてる時だもんな。
もうその手は食わないぜ。

「私はただ、手を繋ぎたいなって!…………ぁ」
「え」

そ、そうだったの?

「もういいです!お兄さんと手を繋ぐなんて、ありえません!ちょっとした気の迷いでした!」

怒りのあまり、俺の呼び方がすっかり元通りになっている。

「待ってくれ!繋ぐ!繋ぎたいです!お願い!」
「ちょ、こんな所で土下座なんかしないでください!?」

今までの人生で、一番のマジ土下座だった。
この機を逃せば、俺はきっと、これからの人生をずっと後悔しながら生きていく事になる。
人目なんか気にしてる場合じゃない。
そんな俺の誠意が伝わったのか……あやせは呆れたような苦笑を浮かべつつ、そっと手を差し出してくれた。

「本当にしょうがないですね、お……京介さんは」

慈愛に満ちたその笑顔は……まさしく天使そのものだったよ。
あやせの手は、マシュマロなんて目じゃないくらいに、温かくて柔らかかった。
絡めている指――驚け。なんと恋人繋ぎだ――から伝わる感触のせいで、俺の脳は酔っ払ったみたいにくらくらと酩酊している。
実感した。俺はきっと、一生あやせに頭が上がらない。

「?どうしたんですか、京介さん?」

大きな瞳をきらきらと輝かせながら、上目遣いでこっちを覗き込んでくるマイエンジェル。
これが本物のデートだったなら、とっくに抱きしめていたことだろう。
もちろん、これはデートのフリなので、実際にそんなことをすれば、あの悪夢のようなハイキックが飛んでくるに違いない。
――そうわかっていても、言わずにはいられなかった。

「ん、いや……やっぱ俺の彼女は可愛いな、ってさ」

調子に乗りすぎたかもしれない。
「なに言ってるんですか、この変態!死ねエエエエ!」なんていう罵声が飛んでくるかと思ったのだが、

「……本心ですか、それ」
「当たり前だろ」
「……ありがとうございます」

潤んだ瞳が、さっと伏せられてしまう。
繋いでいる手が、きゅっと握られた。
気のせいなんだろうけど、「嬉しいです」とでも言われているような気がして……
フリだと分かっているのに、俺まで嬉しくなってしまった。
な、なにかがおかしいぞ……。あのあやせ様が、こんなに大人しいわけがない。
――あ、そっか。これは『デートの練習』であって……つまりは、そういうことだ。
そりゃ大人しくなるわけだ。『好きな人』相手に「死ね」とか言えるわけがないもんな。
あやせが普段よりも十二割増しで天使なのも……その瞳には、好きな人とやらが写っているからなんだろう。
なんだかいたたまれなくなってきた気持ちを吹き飛ばすために、俺はわざと大きな声であやせに語りかけた。

「そういや、観たい映画ってどんな内容なんだ?」

説明が遅れてしまったが、俺達は今、「定番だけど、映画にでも行くか」という
俺の提案によって、映画館へ向かっている最中なのである。
「エロゲーの選択肢をそのまま言うな!」という桐乃からの理不尽な助言を、見事に活かした結果、「映画……いいですね。なんかいかにも『デート』って感じで……」という台詞と、嬉しそうな笑顔を引き出す事に成功した。
なに?言い方を変えただけじゃねえか、だって?
違うよ。桐乃とのデートでは、心底「エロゲーの選択肢どおり」に言っただけの台詞だった。
あやせと映画に行きたかったのは、俺の本心だ。
――勘違いの無いように言っておくけどな。
桐乃にした「植物園とかどうだ?」って提案も、俺なりに真面目な提案をしたつもりだったんだぜ?
それをにべもなく却下された俺の心情も、ちっとは分かるだろう?
エロゲーの選択肢を、そのまま言いたくもなるよ。

「今やってる映画だと……これとか面白そうだと思うんです」

そう言って、あやせはバッグの中から二枚のチケットを取り出した。
これはたしか、最近CMで頻繁に流れている……恋愛映画だ。

「お兄さんは、こういう映画とか大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ。………てか、あやせさん?」
「はい?」
「……なんで、これから行く映画のチケットを、既に持ってるんだ?」
「……あ」

分かりやすく「しまった」という顔になったあやせは、視線をあちこちにさ迷わせてから、観念したように白状した。

「じ、実は……最初から映画には行きたいな、とは思ってたんです。だから、お兄さんが映画に行こうぜって提案してくれて……とっても嬉しかったです。なんだか、心が通じ合ってたみたいで」

とんでもなく恥ずかしい台詞を言い放った本人は、とんでもなく可愛らしい様子ではにかんだ。
心臓の鼓動が痛いくらいに跳ね回る。息苦しくて、視界がぼやける。
あやせのこんな可愛らしい姿を見れて、嬉しくて。まるで夢を見てるんじゃないかと思えてくる。

――夢。

……似たようなもんかもしれないな。

それからのデートは、基本的にあやせ主導で進んでいった。
俺一人では、とても入れないような大人っぽい雰囲気のカフェで、映画の感想を語り合ったり。
アクセサリーショップでペアリングを嵌めて「お揃いですね、京介さんっ♪」なんて言われて、舞い上がったり。
デートの練習としては、なかなかにリアリティのあるものだったと思う。
あやせも楽しんでくれてたみたいだし、どうやら今回の相談も、無事に終える事が出来そうだ。
あやせがデートの締めに選んだ場所は、いつもの公園だった。
裏に交番があるこの場所に、あやせと二人。通報されやしないかという怯えで自然と鼓動が早くなる。
……今日に限っては、それだけが原因じゃないかもしれないが。
ベンチに二人並んで腰掛ける。
夕陽に照らされたあやせは……今日だけで何度そう思ったか分からないが、本当に可愛かった。
天使という形容が、冗談ではないくらいに。
艶やかな黒髪が、オレンジ色に淡く輝いている。
手を伸ばして撫でてみたい衝動に駆られ、俺は慌ててあやせから目を逸らした。

「今日はありがとうございました、京介さん」
「こっちこそ、ありがとな。めちゃくちゃ楽しかったよ」
「……はい」

むず痒い沈黙。なにかを言いたいけれど、この空気を壊したくない。
なにより、会話が進んで……『デートの練習』が終わってしまうのが、怖かった。
あやせは、どうなんだろうな?
あやせが沈黙する理由が分からず、俺はちらちらとあやせの様子を窺う。

「……京介さん、最後に一つだけ、お願いがあります」
「な、なんだ?」
「実は……このデートには、目的があるんです」
「へえ……どんな?」
「……こ、告白を、しようと……思って」

告白。その言葉を聞いた瞬間、胸が締め付けられるように痛んだ。
あまりにも痛くて、思わず表情が歪んでしまう。

「『この間』、言われたんです。俺も君のことが大好きだよ、って」

イラッ。それまでの穏やかな気持ちが嘘だったかのように、胸の中で暗い感情が膨らんでいく。

「……私のこと、本当に好きで居てくれるんだなって……やっと自信が持てたんです」

――限界だった。

「……そうか。それじゃ、頑張れよ。応援してる」
「え?ちょ、ちょっと、お兄さん!?」

呼び掛けるあやせの声を振り切って、俺は早足で公園の出口へ向かう。

「お願い……最後のお願い、まだ聞いてもらってません!」

そんなの、聞かなくても分かるよ。どうせ、「告白の練習をさせてください」……とか、そういう話だろ?
ごめんな、あやせ。やっぱり俺は、どうしようもないダメ人間らしい。
たとえ練習でも、お前が他の男に告白するところなんて……見たくねえよ。
あやせの呼び止める声が聞こえなくなり、出口まであと数メートルというところで、
背後から、誰かに抱き締められた。
甘い香りが鼻孔に届く。背中に感じた体温は、少し熱かった。

「お願いですから、最後まで聞いてください……っ」

切羽詰った声には、嗚咽が混じっていた。
体が鉛のように重い。だというのに、あやせの声に反応して、俺の体は勝手にあやせへと向き直る。

「どうして…………どうして気付いてくれないんですか……っ!」

俺の胸へ、あやせの小さな拳が叩きつけられる。
いつかのハイキックとは比べ物にならない、女の子らしい軽い拳だった。

「今日楽しかったのは、練習だったからじゃありません!……お兄さんと一緒だったから楽しかったに決まってるじゃないですか!」
「え……」

それって、どういう……。

「いつもお兄さんとお話するのが楽しかった!お兄さんが一生懸命相談にのってくれて、嬉しかった!……結婚しようって言ってくれて、本当に嬉しかった……」

限界まで溜まっていた涙が、一滴零れた。それを皮切りに、ぼろぼろと大粒の涙が溢れてくる。

「『あれだけ』分かりやすく言えば、きっと気付いてくれるだろうって……そう思ってたのに。お兄さんは『全然気付いてくれませんでした』」
「……っ」
「だから……最後のお願いです、お兄さん。ちゃんと聞いてください……お願いします」

心の底から搾り出されたような、切実な声だった。

「ああ……分かったよ」

あやせの瞳を、正面から覗き込む。涙で輝く瞳が、真っ直ぐに俺を見つめる。

「お兄さん、私は……ずっと前から、」
「お兄さんのことが、好きでした」

足がふらつきそうになった。眉間を打ち抜かれたような衝撃のせいで、視界が揺らぐ。
あやせ曰く『全然気付かなかった』俺でも……ここまではっきりと言われれば、勘違いのしようもない。
練習でも、ましてや冗談でもない。
あやせが、俺に「好きだ」と……告白してくれた。
死ぬかと思った。原因が分からないけれど、そう思った。息が苦しくて、吐く息がやけに熱くて。
膝は笑っているし、視界は相変わらず定まらない。

「あ、………っ」

何故かあやせの口が堅く結ばれた。照れ……ではない。
……悲しんでいる?

「や、やっぱり、お兄さんは……冗談、で……」
「……ぁ」

その一言で、あやせが再び涙を流し始めた理由に、ようやく思い当たる。
あやせは、俺からの返事を待っているのだ。
俺があんまりもたもたしているもんだから、
「いつもの言葉は、やっぱり冗談だった」なんていう勘違いでもしてしまったのか。
違う。そうじゃない。
俺は……自分の気持ちを、はっきりとあやせに伝えなければいけない。

「あやせ」
「っ!」

あやせの肩が、びくっと震えた。
……俺には「全然気付かない」なんて言っておきながら、お前だって俺の気持ちが分かってねえじゃんか。

「……俺も、だよ」
「……え?」
「なんか今さら、って気もするんだけどさ。あらためて、はっきり言っとく」

緊張で止まりそうになる気持ちに渇を入れるため、一息吸い込んだ。

「俺も、お前のことが大好きだよ。真面目で、友達想いで、ちょっと思い込みが激しくて、天使のようにかわいくて……俺なんかのために、こんなに一生懸命になってくれてる。そんなあやせが、俺は大好きだ」

あやせがなにかを言う前に、俺はあやせを抱き寄せた。
一瞬の抵抗があって……あやせは静かに、俺へと体重を預けてくれた。

「いいんですか、お兄さん?」
「なにが?」
「私、とっても嫉妬深いですよ?」
「そっか。……むしろ、嬉しいよ」
「す、素直じゃないかもしれません。……なるべく、直すようにはしますけど」
「ぜひそうしてくれ」
「そ、それに……お兄さんのことが、本当に……」

言葉の最後の方は、あやせが俺の胸に顔を押し付けてきたせいで、よく聞こえなかった。
その代わり、なのかもしれない。背中に回された手に、ぎゅっと力が込められた。
お返しに、俺もあやせを強く抱きしめる。気持ちが伝わるように、しっかりと。
これから先、俺とあやせがどうなっていくのか……今の時点では、想像も出来ない。
はっきりいって、今は頭が蕩けすぎてなにも考えられない。
ただただ、これが夢なんかじゃないと確かめるように、あやせを強く抱きしめる。
今の俺に出来る事なんて、そのくらいしかない。
ああ、でもな。たった一つだけ、蕩けきった頭でも断言できるよ。
腕の中の愛しい彼女を見つめて、俺は内心で呟いた。

俺の彼女は、こんなにも可愛い――ってな。