翌日。
俺は今、図書館の勉強ブースに麻奈実と並んで座っている。
昨日の雨模様と打って変わって空は刷毛でさっと塗りつけたようなセルリアンブルー、地上には涼やかな風が吹いていて、まさに絶好のお出かけ日和だが、受験生の俺たちには無関係だ。
目線を右斜め後ろの角にやれば、そこだけ雰囲気が違っていて、周囲の男どもの視線を一挙に集めていた。
ま、当然だよな。
天下の読モ様が二人もそろって、仲睦まじく勉強しているんだから。

結論から言っちまうと、俺は桐乃の説得に成功した。
おかげで今現在、俺の両頬には薄い紅葉が賑わっているが、あやせと桐乃が絶交せずに済んだのだから、これくらい安いもんだろう。
桐乃はその後、夜の遅くまであやせと電話で話し込んでいたようで、そこで今日あやせの家で行うはずだった家庭教師を、図書館での合同勉強に切り替えることが決まったそうだ。

と、俺の視線に気づいたのだろうか、クスクス笑い合っていた二人が揃ってこちらを向いた。
んべーっ、と舌を出す桐乃。可愛くねえヤツ。
慌てて目線を逸らすあやせ。初心なあやせたん可愛い。

「何見てるの、きょうちゃん?」
「あいつら、ちゃんと勉強してるかなって」
「ふふっ、きょうちゃんは心配性なんだから。……桐乃ちゃんとあやせちゃん、こうして見てると、すごく仲がいいよねえ」
「ああ、そうだな。あいつらも自分らのことを親友って言ってるしな」

麻奈実はシャーペンのノックで顎先を突っつきながら、

「ねえ、わたしたちって、親友、なのかな?」
「何言ってんだよ。俺たちは幼馴染みだろ」
「ええー、じゃあねじゃあね、親友と幼馴染みって、何が違うの?」
「さあな。どっちも似たようなもんなんじゃねんの。……切っても切れねえ関係って意味ではさ」
「それ、全然答えになってないよう……」

麻奈実は釈然としない様子。
俺は財布を手に立ち上がった。

「ジュース買ってきてやるよ。何がいい?」
「んーとね、わたしは、緑茶がいいかなあ」

だよな。
俺は勉強ブースを抜けて、図書館を出てすぐのところにある自販機に向かった。
活字と睨めっこしていた目に、蒼穹から燦々と降り注ぐ日差しが眩しい。
硬貨を投入して、四人分のジュースを購入する。
桐乃やあやせに好みを聞かなかったのは、桐乃は『コンビニまで走って割高なジュースを買ってこい』と無茶を言うに決まっているし、あやせは遠慮するだろうと思ったからだ。

ガコン。
最後の一本が出てきたところで、背後に気配を感じた。
嗅ぎ慣れた、フルーティな香水の匂い。

「あやせも休憩か?」
「はい……お兄さんと、少し、お話がしたくて」

俺がベンチに腰掛けると、あやせも人一人分の間隔を空けて隣に座った。
思わず、苦笑してしまう。
ベンチの端から端まで距離をとられていたときのことを思うと、これでもすげえ進歩だよな。

「何が可笑しいんですか?」
「なんでもねえよ。ジュース、どれがいい?ああ、緑茶は麻奈実のだから、それ以外で」
「じゃあ……これを」

林檎ジュースを選び取り、財布を取り出しかけたあやせを、やんわり制止する。
女子中学生から代金を徴収するほど俺の器は小さくない。
あやせは困ったように瞬きして、プルタブを空けた。俺もそれに倣い、白葡萄の缶ジュースを飲むことにする。
悪ぃな桐乃。お前の選択肢はこれで無くなったぜ。

「勉強はもうバッチリか?」
「はい……さっきなんかわたし、桐乃に質問されたんです。そんなこと初めてで……ちょっと感動しちゃいました」
「そっか」
「お兄さんのおかげです。わたしが躓く度に、お兄さんが手を取ってくれたおかげで、今ではわたし、あんまり数学や理科が、苦手じゃなくなったような気がします」
「気がするんじゃなくて、実際、そうなんだって。あやせは自分が思ってる以上に、この一ヶ月よく頑張ってたよ。予想問題解くみたいに、落ち着いて解けば、テストも絶対上手くいくさ。俺が保証する」
「………はい、ありがとうございます」

なんか今日のあやせは妙に素直だな。
折り畳みナイフのような秘めたる狂気が感じられないというか……なーんか調子狂うぜ。
ここは一発、軽いセクハラ発言で、いつものあやせに戻ってもらうとしますかね。

「あやせ、ジュースを交換しないか?」
「いいですよ?」
「おう……って、えええぇぇえぇぇ!?マジで!?」

いいの?あれほど生理的に受け付けないって言ってたお兄さんと間接キスだぜ?
ここは『絶対イヤです!』とか『死ねぇ!』とかが定石だろ!?
あやせはそっと缶を左脇に置いて、膝の上でぎゅっとこぶしをつくり、

「た、ただ味を飲み比べるだけじゃないですか?お兄さんは意識しすぎですっ……!」
「ちょ、無理しなくていいって。あれだろ、家庭教師してもらった義理で、我慢してんだろ?」
「本気でお兄さんに自分のジュースが飲まれるのが嫌なら、わたし、義理とか恩とか関係なく断っていますから」

茫然とする俺を余所に、あやせは消え入りそうな声で言った。

「わたし、ずっと前から気づいてるんですよ?お兄さんが本当は……初めて会ったときの印象そのままの、優しいお兄さんだってこと」

えっと、何言ってるのかなー、あやせたん?
俺は近親相姦上等の鬼畜だよ?
妹との愛の証を蒐集して、それを他人に見せびらかして喜ぶような変態だよ?

「桐乃の趣味のことで、わたしと桐乃が喧嘩したとき、公園でその……ああいったものを見せびらかしてきたのは、怒りの矛先を自分に向けることで、わたしと桐乃を仲直りさせるため、だったんですよね?わたしの嫌がるようなことをするのも、その嘘を本物にするため……違いますか?」

うーん、お兄さんあやせたんが何言ってのかさっぱりわかんねえわ。

「麻奈実さんに、一度お兄さんの悪口を言ったことがあるんです。そうしたら、わたし、初めてお姉さんに怒られちゃいました。お兄さんはそんな人じゃないって……桐乃のことを誰よりも大切にしてる、いいお兄さんだって……」

本当、言わなくていいことばっか喋るよなあ、あいつ。

「俺が麻奈実に吹き込んどいたんだよ、あやせに聞かれたらそう言っとくように」
「嘘、つかないでください」
「嘘じゃねえよ」
「じゃあ……桐乃の言ったことも、嘘ですか?お兄さんは桐乃にも、自分のことを良く言うように、吹き込んでいたんですか?」
「…………」
「桐乃は……あの子は絶対に認めないでしょうけど……お兄さんのことが大好きなんです。学校でも、撮影でも、ことあるごとにお兄さんの話をしていて、お兄さんのことを話しているときの桐野は、すっごく笑顔で……。きっとその笑顔は、わたしがどんなに頑張っても、作れないものなんです。わたしがお兄さんに相談しようと思ったきっかけ、何だか分かりますか?ある時、桐乃が言ったからです。『何か困ったことがあったら、あたしか、うちの兄貴に相談すればいいよ』って……すごく、誇らしげに」
「あいつが、そんなことを……」
「わたしは……完全にではないですけど……ある程度は、桐乃の趣味を認めています。だからお兄さんは、もう、嘘をつかなくてもいいんですよ?」

一気に捲し立てたせいか、頬は上気し、双眸は僅かに潤んでいる。
分かったよ。ここまで言われたらぐうの音も出ねえ。観念する。でもさ……。

「桐乃の前では、これまで通り、俺のことを罵ってくれねえかな。妹のことを性の対象に見てる変態シスコン兄貴として、扱って欲しいんだ」
「ど、どうしてですか?」

あやせは引き気味で言った。そりゃ引かれるのも仕方ない。
冷静に今の台詞顧みたら、真性マゾの懇願にしか聞こえねえよ。俺は言った。

「だってそのほうが、桐乃にとってもあやせにとっても、楽だろ?」

桐乃は俺の存在を言い訳にすることで、あやせからエロゲ趣味を見逃してもらう。
あやせは俺の存在を理由にすることで、桐乃のエロゲ趣味を見逃してやる。
さっき言ってたけど、あやせもまだ完全に、あいつの趣味を認められたわけじゃねえんだろう?
だったら残りの怒りの矛先は、これまで通り俺に向けておいてくれよ。
本音は別でも、表向きはさ。

「お兄さんは、それでいいんですか?」

あやせ、いっぺん自分の歳言ってみ?

「じゅ、十五ですけど?」

俺は十八だ。お前らよりも三つも年上。
だからその分打たれ強くて、緩衝材にはぴったりの役どころだろ。

「お兄さん……!」

俺は何気なく――本当に何気ない仕草で、あやせの頭に手を置いた。
まるで、妹にしてやるみたいにさ。

「じゃあ、その代わりに……。わたしとお兄さんの二人きりのときは、本当のお兄さんでいてくれますか?」
「ほ、本当の俺?」
「だから、その……、わざと嫌われるようなことをしたりしない、わたしが初めてお兄さんと会ったときのような、優しいお兄さんです」

ハードル高いなおい!?
あやせと初めて会ったときの俺って、どんな感じだったかなあ。よく思い出せねえや。
……ああ、やっぱ嘘。よく覚えてる。
あの時は確か、沙織から同人誌入りの箱が届いて、それを桐乃から取り戻そうと必死だったんだっけ。
苦い思い出に溜息をつきつつ、俺は腕時計を見る。

「オーケー、分かったよ。努力する。……さ、この話はもう終わりにして、戻ろうぜ。桐乃や麻奈実が、俺たちのことを探しにこないうちに」
「もう一つだけ、お話があります。昨日電話で、桐乃が教えてくれたんですけど……。お兄さんは桐乃に彼氏ができるまで、彼女を作らないそうですね?」

おいおい、あいつそんなことまで喋ってたのかよ。
家に帰ったらお灸を据えてやらねえと。どうせできねえクセに、って突っ込みはナシだぜ?

「もしも桐乃に……ま、まだまだ先だとは思いますけど!もしも桐乃に彼氏ができたら……」

長い黒髪が秋風を孕み、一時、あやせの横顔を覆い隠す。
あやせはもじもじと爪先を擦り合わせていたが、

「その時は……」

やがて眦を決するように唇を湿らすと、真正面から俺を見据えて言った。

「わたしを、お兄さんの彼女にしてくれますか?」

ありきたりな表現だが、時が止まったような錯覚がしたね。
風のそよぎや、街路樹の葉擦れの音。
祈るように組まれた両手や、朱色に染まった瓜実顔。
聴覚、視覚の順に感覚が戻ってくる。
そして最後に、俺のポンコツな脳味噌は理解した。
俺がたった今、あやせに告白されたことに。

「あー……それって、仕返しのつもりか?」
「え……えっ?」
「ほら、今まで俺が『結婚してくれー』とか、『あやせの夫になりたい』とか言ってたことに対する……」

あやせは愕然とした表情になり、やがてわなわなと肩を震わせつつ、低く怖い声で言った。

「ええ……もちろん、当たり前じゃないですか。わたしが本気で!お兄さんに告白するなんて!あり得ないですよね!」

こ、怖ぇ!な、なな、なんでそんなに怒ってんの?
あやせさん前にはっきり仰ってましたよね?『現状ではわたしがお兄さんの彼女になるなんてありえない』って。

「確かにそうは言いましたけど……言いましたけどっ!ああっ、もう、信じられない!お兄さんの馬鹿っ!死んじゃえ!!」

あやせは盛大に俺を罵倒して、図書館の中に駆け込んでいった。
わ、わけわかんねえ。どこで選択をミスっちまったんだ?

「………」

おいチビッ子、憐れむような目で俺のこと見てんじゃねえよ!
その直後、俺の親父に匹敵する強面のオッサンが出てきて言った。

「うちの子に何か?」

いやー聡明な顔立ちのお子さんですねえアハハ。
あやせのいなくなったベンチに一人、肺の中身を全部吐き出しそうな勢いで溜息を吐く。
見上げれば、高く澄んだ秋空。
雲が形を変える速さで、上の方では強い風が吹いていることが分かる。
このまま午睡したくなるような温かさだが、俺もそろそろ戻らねえとな。
俺は白葡萄ジュースの缶を、手近なゴミ箱に投げ捨てて腰を上げ……、あやせが置き忘れた、否、正確には、あやせが俺と交換しようとした、林檎ジュースに気がついた。

「まだ残ってるな」

辺りを見渡す。
……ったく。何恥ずかしがってんだか。中学生じゃあるまいしよ?
缶の中身を一気に飲み干す。
林檎のものだけじゃない、どこか懐かしく甘酸っぱい味わいが、喉を流れ落ちていった。


『俺の妹がこんなに可愛いわけがない 9巻(偽) 第一章』  おしまい