そんなこんなでテスト四日前の土曜日。
あやせは事務所に嘆願して、試験一週間前から撮影を休むことを許可してもらったようで、朝方届いたメールには、
『土曜日と日曜日、お兄さんの都合が良い方で家に来ていただけたら嬉しいです。わたしは両方とも家で勉強していますので』
とある。
「どうすっかなー」
俺はリビングのソファに寝っ転がり、朝のワイドショーを眺めながら溜息をついた。
正直な話、もうあやせに教えることってあんまねえんだよな。
範囲で分からないと言っていたところは粗方みっちり解説してやったし、その解説もルーズリーフに纏めたものを、あやせの部屋のバインダーに綴じてあるので、
あやせが解法を忘れたときも、わざわざ俺が傍にいてやる必要が見当たらないのだ。
「あら桐乃、おはよう」
「うん……おはよー……お母さん」
視線をやれば、寝ぼけ眼を擦りながら、桐乃が朝食の席についたところだった。
「昨日は遅くまで起きてたんでしょう?早く寝ないと体に毒よー?」
「う、うん」
ハッ、声が上擦ってやがる。
夜更かしの原因がエロゲだとは口が裂けてもいえねえよな。
なんで俺がそんなことを知ってるかって?
昨日の夜中まで薄い壁越しに『カレンちゃんカワイー!』だの、『ああんそこまでやるのぉ?やばすぎィ』だの『BAD直行とかマジありえなくない?』だの、聞きたくもねえ嬌声が聞こえてきたからだよクソが!
お袋はそれからしばらく桐乃の世話を焼いていたが、
「あたしちょっと隣に回覧板届けてくるわね。京介、あんたいつまでもゴロゴロしてないで勉強しなさいよー?あんたは桐乃と違ってあんまり頭が良くないんだから……」
ほっとけや!何この露骨な差別!
言われなくても9時になれば勉強始める気だったっつうの。
「へいへい」
戸が閉まる音がして、リビングに桐乃と二人きりになる。
TVもつまんねえし、とりあえずさっとシャワー浴びて、そっから麻奈実と図書館で勉強するか、あやせの家に行くか考えるか。
「ねえ」
「ん?なんだよ」
ドアノブに手をかけたところで、桐乃に呼び止められた。
「……今日さあ、沙織と黒猫がウチ来るんだけど」
「へえ、あいつらが揃って遊びに来るなんて久しぶりだな」
お嬢様の沙織は何かと多忙でしかも家が遠く、黒猫は夏の一件のせいだろうか、この家に来るのを少し躊躇っているきらいがあった。
桐乃は寝癖のついた茶髪を、指先でくるくる弄りながら、
「今日はお父さん、朝から夜まで帰ってこないし、お母さんも昼から出かけるでしょ?それでね、ウチでマスケラの鑑賞会することになったの。新版のマスケラが来期から始まる噂があって……その予習」
「ふーん」
桐乃も桐乃なりに、黒猫の趣味趣向を理解しようとしているんだろう。
ちょっと感心したよ。
昔は邪気眼全開アニメとか言って毛嫌いしてたのにな。
「まあ、鑑賞会すんのはいいけど、前の星屑うぃっちメルル観た時みたいに、黒猫と喧嘩すんなよ?今回は沙織も一緒だから、大丈夫だとは思うけどさ」
ドアノブを捻る。が、会話はそれで終わらなかった。
「あのさ、あんたも……その……一緒に観ない?」
「はぁ?」
「だ、だからっ!せっかく大画面のテレビでマスケラ観られるチャンスじゃん!あんたはこの前『漆黒』のコスプレして悦に入ってたけど、全然成りきれてなかったし、ちょっとはアニメ観て仕草とか台詞とか勉強したら!?」
桐乃にここまで言わしめるほど、俺のコスプレは微妙だったのだろうか。
自分ではかなりいいセンいってると思ってたし、黒猫も悪くないと言ってくれたんだがなあ。
つか、マスケラまともに観てないお前が、俺扮する『漆黒』にケチつけるのっておかしくね?
ここは――あやせの家に行こう。
いくら特に教えることがないと言っても、自宅で妹やその友達とアニメ観るよか、あやせの傍で勉強を見てやる方がいいに決まってる。
それにあやせが質問してこない限りは、俺も自分の受験勉強に集中できるしな。
「いいよ、遠慮しとく」
「あっそ。あんた、今日はどっかでかけんの?」
「昼から図書館。それまでは家にいる」
「………」
桐乃は大人しく引き下がった。
まあ、最初から俺が鑑賞会に出席しようが欠席しようが、どうでもいいと思っていたんだろうさ。
昼時。ちょうど俺が遅めの昼飯を食べ終わった辺りで、チャイムが鳴った。
「おい桐乃、黒猫と沙織じゃねえか?」
「あんたが出てきて!」
TVの設定を変えたり、お菓子とジュースを準備したりと、忙しなく動き回っている桐乃。
しゃあねえなあ。
玄関の扉を開けると、身長180センチを超えるオタクファッション全開の沙織と、ゴスロリ衣装を身に纏った夜の眷属――じゃねえ、黒猫が佇んでいた。
「京介氏!お久しぶりでござる!拙者、京介氏と相見えることを楽しみにしていましたぞ!」
よう、沙織。お前は相変わらずだな。
まだ素顔を日常的にみんなに晒すのは、抵抗があるのか?
「………」
沙織は口をA(←こんなふう)にして俺を見つめる。
や、悪かったよ。ゆっくり慣らしていけばいいさ。
「こんにちわ、先輩」
言葉少なげに挨拶する黒猫。
右手には大きな紙袋がある。多分中には大量のDVDが入っているんだろう。
「マスケラの鑑賞会やるんだってな。それ、重かっただろ?」
「夜の眷属たるわたしにとって、こんなもの、大した重さではないわ。今宵、あなたの妹はマスケラの深淵なる闇を垣間見ることになる――」
絶好調ですね、黒猫さんも。
「京介氏、きりりん氏はいずこに?」
「リビングで待ってるよ。上がってくれ」
玄関で靴を脱ぎ、俺は階段に足をかける。
そろそろ俺も出かける準備をしないとな。
「先輩?」
「……ん?」
振り返れば、なぜか黒猫はリビングに行かず、深紅の瞳で俺を見上げていた。
「あなたは鑑賞会に参加しないの?」
「昼から用事があるんだ。お前ら三人で楽しんでくれ」
「そう……残念だわ」
黒猫は俯く。垂れた前髪で両目が隠れ、一瞬、泣きぼくろが本物の黒い雫のように見えた。
「でもきっと……わたしと同じくらい、あなたの妹も残念がっているのでしょうね」
デジャビュ。
『好きよ……あなたの妹が、あなたのことを好きな気持ちに、負けないくらい』
黒猫は時折、自分の気持ちの強弱を、桐乃のそれを例に出して表現する。
俺と黒猫は、しばらくの間無言で、視線を通わせた。
思い出すのは、夏の日々。
約束の地で黒猫に告白され、夢中になって付き合い、夏の終わりと一緒に別れたこと……。
「瑠璃――」
「京介氏ー?黒猫氏ー?」
我に返る。俺は昂ぶる気持ちを抑えて言った。
「行けよ。沙織が呼んでるぜ」
「え、ええ、そうね」
黒猫は名残惜しげに下唇を噛み、足早にリビングに駆けていった。
踵を返して、自室に駆け込む。
なにやってんだろうな、俺。
意識しちまうのは仕方ないにしても、名前で呼びかけるなんてよ……。