「そろそろ帰るわ」
「あっ、もうこんな時間。でも、あと一時間勉強しませんか?この単元だけでも終わらせておきたいんです」
「急ぎ足で進みすぎても、後で躓いたときに怪我するぞ?今日一日で十分すぎるほど進めたし、そのやる気は復習に回してくれ」
「分かりました」

ちょっと不服げに頬に空気を集めるあやせ。可愛い。
しっかし、お兄さん嬉しいよ。
あやせがこんなにやる気を出してくれてさ。
なんつーか、教え子が一生懸命だと、教える側も自然に一生懸命になっちまうよなあ。
俺は充実した気分であやせ家の門をくぐり、往来に出た。
自転車に跨がり、ペダルに足をかける。

「…………ん?」

俺さあ、なんか途轍もなく大事なこと、忘れてねえ?
第六感が警鐘を鳴らしているが、肝心の違和感の正体が掴めない。
なんだ?このモヤモヤした感覚はなんなんだ?
くそっ、全然わかんねえ。俺は痺れを切らして漕ぎ出した。
が、50メートルも進まないうちに、背後からあやせの悲痛な叫び声が!

「お兄さんっ!止まって下さい!本気でそのまま帰るつもりなんですかっ!?」

「どうしたんだ?」
「どうしたんだもこうしたんだもありませんっ。とにかく、今すぐ戻ってきてくださいっ!」
「忘れ物か?」
「逆ですよっ!もうっ、お兄さんの馬鹿っ!」

西日の中、あやせがこっちに走ってくる。
風に靡く黒髪。林檎色の頬。幽かに潤んだ瞳。
え………なにこのシチュエーション………これってもしかすると……もしかしなくても……。

「お別れのチュー?」
「違いますっ。本気で言ってるならブチ殺しますよ!?今すぐ両手を出して下さいっ!」
「お、おう」

ガチャチャン。
目にも止まらぬ早さで、あやせが鉄の輪を取り去る。
あ……ああ!手錠か!すっかり馴染んでたわ。

「馴染んでたですって……?け、穢らわしい!不注意にも程がありますっ!もしご近所の方に、わたしの家から手錠を付けたお兄さんが出て行くところを見られでもしていたら、どんな悪評が流れていたか……想像するだけでも恐ろしいです」
「不注意って、あやせも部屋を出て行くとき何も言わなかったじゃねえか!それにこういうことが起こることは、手錠はめたときに想定しとけよ!」
「それについてはわたしの落ち度です。まさかお兄さんが手錠を体の一部と思えるほどの変態だと、見極めきれていなかったんですから」

うわーそんな冷静に変態って言われると傷つくなあ。
しかし俺が何の違和感も感じずにあやせの家を出てきてしまったことは紛れもない事実。
反論できる立場じゃねえ。
俺ってマジで奴隷願望あるのかな……なんか最近自分の性癖に自信が持てなくなってきたわ。

「とりあえず、帰るわ。あやせも家に戻れよ。こんなところで突っ立って、誰かに見られたら元も子もないだろ。それ、早くどっかに隠せ」

あやせはどこに鉄の輪を隠そうかと逡巡していたが、手錠と長い鎖がデニムスカートのポケットに入るはずもなく、苦肉の策として服の下に仕舞いこみ、上から手で押さえる。
思わぬところで、ラブリーマイエンジェルあやせたんのへそチラ画像ゲットだぜ!

「じゃあな」

物寂しくなった腕を回し、ペダルに足をかける。
今度こそさよならだ、と思ったそのとき、

「待って下さい、お兄さん。ひとつ言い忘れていたことがありました」
「……なんだよ?」

まだ罵倒したりないとか桐乃みてえなこと言ったら、さすがの俺でも泣くぞ?
朱色に染まった町並みを背景に、深く頭を下げて、

「今日もお忙しいところ、家庭教師をしてくださって、ありがとうございました」

髪を耳にかけ、はにかむあやせ。
ああ、言い忘れてたことって、それのことね。
あやせと俺の家庭教師の、始まりの恒例行事が手錠をかけることなら、終わりの恒例行事は、手錠を外すことと、勉強を教えたことに対する丁寧なお礼だと言える。

「おう。宿題忘れんなよ」

俺は軽く手をあげて、力強く自転車を漕ぎ出した。

それから二週間は、最初の一週間の焼き直しとも言える日々が続いた。
平日の放課後に2~3回、週末のどちらかに1回、都合週に3~4回の頻度で、俺はあやせ家を訪問した。
あやせの学力は――贔屓目で見ているからかもしれないが――回を重ねる事に、メキメキと上達していった。
またこれも休憩時間の閑話で分かったことだが、理数系の科目の点数が目に見えて低下したのは、三年生の初め、学力診断テストでのことで、実際二年生の三学期あたりまでは、あやせも成績上位陣に名を連ねていたそうだ。
つまり何が言いたいかというとだな、あやせは、やれば出来る子なんだよ。