≠菊地直子(46) | オレサマのブログ
<>


菊地 直子(1971年12月9日~)は、オウム真理教の元信徒。ホーリーネームはエーネッヤカ・ダーヴァナ・パンニャッターで、教団が省庁制を採用した後は「厚生省」(分割後は「第二厚生省」)に所属した。オウム真理教事件被疑者の1人として、警察庁特別指名手配被疑者に指定され、長期間逃亡していた。地下鉄サリン事件に使われたサリン製造に何らかの形でかかわっていたかの報道が逮捕までなされていたが、全く無関係であり、逮捕容疑であった地下鉄サリン事件、VX殺人事件ともに処分保留となり、最後に逮捕された東京都庁小包爆弾事件では起訴されたものの裁判員裁判の一審では殺人未遂幇助罪で懲役5年の判決が出たが二審では無罪となった。その後、最高裁で無罪が確定した。
菊地直子
誕生 1971年12月9日(46歳)
埼玉県
ホーリーネーム エーネッヤカ・ダーヴァナ・パンニャッター
ステージ 師補
教団での役職 第二厚生省
入信 1989年
関係した事件 東京都庁小包爆弾事件
判決 無罪(2017年12月27日、最高裁判決)
来歴
埼玉県で出生。父親の仕事の都合で転居を繰り返した後に大阪市に居を定め、菊地は地元の小学校に通う。父は大学教員で大変厳格であり教育熱心な家庭であった。低学年からピアノを習い、外遊びをあまりしない子供であった。当時倍率約10倍の中学校に入学、バスケットボール部に所属。優等生タイプで成績はトップクラス、真面目でやさしく人望が厚かった。高校では陸上部に所属。3000mで11分23秒の記録を持つ。校内のマラソン大会では常に大差をつけて優勝、地区大会で上位入賞を果たしたこともある。
オウム真理教との出会い
陸上競技で痛めた足の治療のためにヨガを始めたが、そのヨガ道場がオウム真理教の施設だったというのがマスメディアの定説になっていたが、2015年8月の月刊『創』誌上での手記では、全く事実とは異なると否定している[2]。当時、両親との関係は非常に悪かった。18歳の高校卒業後、1989年12月27日に家族の反対を押し切り、オウム真理教に入信。実家には絶対に戻りたくないと思っていた。きっかけは麻原彰晃の著作に触れ、その作中で指摘される神秘体験を経験したことであった。教団でいう「エネルギーの強いタイプ」で激しいダルドリィ・シッディ(蓮華座を組んだ状態で体が激しくはねる。教団では空中浮揚の前段階とされていた)がよく起きていた。「1997年にハルマゲドンが勃発し、アメリカ合衆国軍によって日本に核爆弾が投下される瞬間、自分自身とオウムの仲間が地下シェルターのようなところに潜んでいる」という夢をよく見たが、それを予知夢と信じていた。
1990年4月に大阪教育大学教育学部障害児教育課程に入学。大学には一度も通学せず、同年4月20日より家出をする。家出は2度目で、1度目は親が雇った私立探偵(本人のブログ「闇が深ければ深いほど星はたくさん見えるから」http://naokokikuchi.jugem.jp/によると私立探偵ではなく「私服警官」)によって連れ戻された。5月19日にはオウム真理教に出家した。
出家後
最初に配属されたのは山梨県の富士清流精舎で、1日15時間くらいの修行を1ヶ月間続ける。この頃「修行がつらい」と出家から知り合っていた男性信者にもらす。8月には修行施設としての受け入れ体勢が整った熊本県波野村へ行く。CBI(Cosmic Building Institute)とよばれる建築班のワークを行っていたが、当時は下向(在家信徒に戻ること)をするかどうか迷っていた。1990年の終わり頃には、我が子を捨てて修行に勤しむ信者の子供を教育する「子供班」に配属されるが、このワークは菊地には非常なストレスだったようで「帰りたい」としばしば口にするようになる。1991年6月には前述の男性信者が下向してしまう。
1991年夏には教団に陸上部が発足。きっかけは中沢新一の『チベットのモーツァルト』の中に「風の卵をめぐって」という章があり、そこに「風の行者」というチベットの行者が紹介されていたことにもとづく。「風の行者」は、瞑想しながら神秘的な「風」(ルン)の力を伴い凄まじい速度で高原を駆け抜けていく。オウムでは「修行をすればこうした境地に到達でき、世界記録達成も可能」と考えられていた。
9月には東京陸上競技協会に加盟申請するが「宗教活動されては困る」と断られたことからオウム真理教ではなく「オウム・スポーツクラブ」として加盟を認められた。陸上部は教団内では世界記録達成部とよばれていた。
菊地は同年11月の河口湖マラソン(3時間23分3秒、完走75人中24位)を皮切りに1992年(平成4年)東京国際女子マラソン(途中棄権)、1994年(平成6年)大阪国際女子マラソン(3時間7分40秒、自己ベスト記録、127位[5])にオウム真理教陸上競技部として出場し、一部週刊誌に取り上げられた経歴を持つ。また、1995年4月19日~4月25日の5回にわたり、山梨県上九一色村の施設から東京都八王子市のアジトに爆発物の原料となる薬品類の運搬役をしたとされ(東京都庁小包爆弾事件)、ここからマスメディアにより『走る爆弾娘』の異名を付けられる(なお、後述するとおり第1審判決においては、爆発物の原料を運んでいるという認識がなかったとして爆発物取締罰則違反罪の成立は認められていない)。
特別指名手配後
地下鉄サリン事件において土谷正実が中心となったサリン製造プロジェクトに関与した殺人及び殺人未遂の容疑で警察から特別指名手配されていた。
1995年6月頃には千葉県市川市のアパートに林泰男らと潜伏、同年11月までに名古屋市、京都市などを林らと共に転々とし、1996年11月には埼玉県所沢市のマンションに高橋克也、北村浩一ら他の特別手配信徒と5人で潜伏していた。1996年11月以降は足取りが途絶え、後述のように「海外逃亡説」もあったが、1997年以降は高橋と川崎市のアパートに潜伏、2007年3月からは後述する教団外の男性と共に暮らしていた。
逮捕
2012年6月3日、「菊地に似ている女性を見かけた」との目撃情報が警視庁に寄せられ、それを受けて警視庁捜査一課が担当刑事を相模原市緑区の潜伏先に派遣し、張り込みを行った結果、潜伏先の住宅に女性が帰宅したのを確認して任意同行を求めた。
その時点では、捜査員が菊地であると確信出来なかったことから、警視庁本庁への身柄送致が行われた後、捜査官が照合作業を行った結果、女性が菊地本人であると確認し、警視庁が殺人及び殺人未遂容疑で、菊地に対する逮捕令状を執行し、通常逮捕を行った。
地下鉄サリン事件では処分保留となり、6月24日に3件のVXガス事件で殺人及び殺人未遂で再逮捕。3件のVXガス事件も処分保留となり、7月15日に東京都庁小包爆弾事件での殺人未遂と爆発物取締罰則違反容疑で再逮捕した。
逮捕後、警察では暴力を振るわれ、嘘の自白をさせられると考えていたところ、取調官が意外に紳士的であったことから、「こちらの言い分もちゃんと聞いてくれるんだ」と思ったが、その後地下鉄サリン事件の件になると、それまで穏便だった取調官が、態度を豹変させ怒声を浴びせ、冷徹な目で睨みつけた。少しでもわかってもらえるかと期待し、取調官に対し心を開きかけたことを後悔し、「『何も話していない』と言うなら、もう本当に話しません」と言い、その後2度と話すことはなかった。
サリン事件について「当時は何を作っていたか知らなかった」、VXガス事件について「事件にかかわったかどうかわからない」と容疑を一部否認し、東京都庁小包爆弾事件では黙秘をした。サリン事件とVXガス事件については、不起訴処分となった。
のち、2015年8月号月刊『創』において、2012年6月3日の逮捕直後に菊地は国選弁護人から、過去のオウム裁判の記録中には菊地の名が殆ど上がっておらず、サリン生成には関与していないのではないかと言われ、指名手配で逃亡しているうちに、自分自身が何らかの形でサリン生成に関与してしまったのではないかと思い込み、17年間逃亡していたが、この弁護士にそう言われ「何がサリンと関係していたのかが分からなくて当たり前だったんだ」と思うようになったと述べている。
また、地下鉄サリン事件直後、教団への強制捜査が迫ったため、林泰男と逃亡したとか八王子市のマンションに潜伏していたな