→Steven Allan Spielberg(70) | オレサマのブログ
<2020-01-10 22:00:05~22:50 まるごとSTAR WARS ~いよいよ完結SPL>

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本名 Steven Allan Spielberg
生年月日 1946年12月18日(70歳)
出生地 アメリカ合衆国 オハイオ州シンシナティ
国籍 アメリカ合衆国
民族 ユダヤ系アメリカ人

活動期間 1969年 -
活動内容 1969年:テレビ脚本初執筆
1971年:テレビ映画初監督
1974年:劇場映画初監督
1975年:『ジョーズ』でブレイク
1993年:アカデミー賞受賞
1998年:アカデミー賞受賞
配偶者 エイミー・アーヴィング (1985 - 89)
ケイト・キャプショー (1991 - )
著名な家族 ジェシカ (1976 - ) 現妻の連子
マックス (1985 - ) 前妻との実子
セオ (1988 - ) 現妻の連子
サーシャ (1990 - ) 実子
サイヤー (1992 - ) 実子
ミカエラ (1996 - ) 養子
デストリー (1996 - ) 実子
主な作品
『ジュラシック・パーク』シリーズ
『ジョーズ』
『E.T.』
『シンドラーのリスト』
『インディ・ジョーンズ』シリーズ
『プライベート・ライアン』
・ 受賞
アカデミー賞
作品賞
1993年『シンドラーのリスト』
監督賞
1993年『シンドラーのリスト』
1998年『プライベート・ライアン』
アービング・G・タルバーグ賞
1986年 映画界への貢献に対して
ヴェネツィア国際映画祭
1993年:金獅子賞・特別功労賞
経歴賞
全米映画批評家協会賞
監督賞
1982年『E.T.』
1993年『シンドラーのリスト』
ロサンゼルス映画批評家協会賞
監督賞
1982年『E.T.』
放送映画批評家協会賞
監督賞
1998年『プライベート・ライアン』
2002年『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』
英国アカデミー賞
監督賞
1993年『シンドラーのリスト』
ゴールデングローブ賞
監督賞
1993年『シンドラーのリスト』
1998年『プライベート・ライアン』


アンブリン・エンターテインメント及びドリームワークスの共同創業者


経歴
幼少時代
オハイオ州シンシナティでウクライナ系ユダヤ人の家庭に生まれ、アリゾナ州に育つ。古い資料では1947年生まれとなっているが、これはスピルバーグが長年1947年生まれと偽ってきたためで、1946年生まれが正しい。Spielberg(シュピールベルク)というドイツ語の姓は直訳すると「芝居山」という意味で、祖先が17世紀に居住していたオーストリアの町の名前に由来する。英語訳では「Playmount」となり、彼が若い頃の映画製作の社名にしていた。
父のアーノルド・スピルバーグ (1917 - ) は電気技師、母のリア・アドラーはコンサートピアニスト(後に、レストラン経営者となり、ロサンゼルスで“The Milk Way”というユダヤの乳製品料理のレストランを始める)であった。父の仕事の都合上、引っ越しが多かったという。
ユダヤ人であったほか、ディスレクシア(失読症もしくは難読症)のために同級生より読み書きを修得する速度が遅く、このためいじめも受けたこともあった。また、両親は離婚しており、これらのことが後の作品に大きな影響を及ぼすことになる。
初めて観た映画は5歳の頃に鑑賞した『地上最大のショウ』。幼い頃から8ミリカメラで自主的に映画を製作する。きっかけは13歳の頃、家族旅行の際に父親から8ミリカメラを渡され撮影係を頼まれたためだという。スタンリー・キューブリック、デヴィッド・リーン、黒澤明、アルフレッド・ヒッチコック、『ゴジラ』など様々な映画の影響をうけるが、特にディズニー映画は初期の彼の作品にさまざまな影響を与えている。彼自身、雑誌のインタビューで「ウォルト・ディズニーこそ僕の生みの親で、テレビは育ての親だ」と語っている。

少年時代
17歳の時、アリゾナに住んでいたスピルバーグはカリフォルニアに遊びに来た際、ユニバーサル・スタジオをバスで回るツアーに参加。ツアーの途中でトイレに隠れてバスが去ってからスタジオ内を探索するという大胆な行動を行った。スタジオで映像保管係をしていたスタッフと知り合うと、3日間の通行証を作ってもらったためその3日間で人脈を作り、スタジオには顔パスで入れるようになり、通行証なしで出入りできるようになったという[4]。この頃、映画監督のジョン・フォードと出会う。
1965年からカリフォルニア州立大学ロングビーチ校にて映画を専攻。この頃になると、スピルバーグは大学に通う一方で休みになるとユニバーサルへ潜り込むようになり、ついには空き部屋だった掃除小屋を自分のオフィスとして使用してユニバーサルに居候を始め、ハリウッドを出入りするようになる。その後、21歳のときに、オープニングタイトルとオプチカル効果の会社を経営しているデニス・ホフマンと知り合い、映画製作資金を提供してもらうこととなり、最初の作品「アンブリン」を完成させる。この映画がユニバーサルテレビ部門の責任者シドニー・シャインバーグの目に止まり、ユニバーサルと7年契約することとなる。
しかし、上記の契約のため大学の卒業は困難になり、1969年にカリフォルニア州立大学は中退した。後に再度入学し卒業、2002年にB.A.(学士号)を取得。なお、1999年にブラウン大学から名誉博士号を授与されている。

職歴
1970年代
1972年に、テレビ映画として撮った『激突!』が評判を呼び、海外では劇場公開され、スピルバーグの名前が世界に知られるようになる。1974年に『続・激突! カージャック』で、劇場用映画監督に進出。
1975年に公開された『ジョーズ』はそれまでの『ゴッドファーザー』の記録を破り1977年に『スター・ウォーズ』に抜かれるまで世界歴代興行収入1位を記録する大ヒットとなり一流監督の仲間入りを果たす。
1977年に公開された、人類と宇宙人のコンタクトを描いた『未知との遭遇』も話題となった。
1980年代
初期の頃は、娯楽映画で評価を得ていたが、やがて様々なジャンルの映画を手がけるようになる。一作目が1981年、二作目が1984年、三作目が1989年に公開された、考古学教授でありトレジャーハンターの大冒険を描いた『インディ・ジョーンズ』シリーズも大ヒットとなった。1982年に公開された、不恰好だが愛くるしい宇宙人と子供たちとの交流を描いたファンタジー作品『E.T.』では、2度目の世界歴代興行収入1位を記録。
また、1980年頃より、自ら監督を務めない作品でも、プロデューサーとして名を連ねることが多くなった。ただし、必ずしも製作指揮をとっていたわけではなく、製作資金を確保するために名前を貸したケースも多く、その中には興行的に失敗した作品も少なくない。

1990年代
1993年には『ジュラシック・パーク』を大ヒットさせ、3度目の世界歴代興行収入1位を記録。1997年に『タイタニック』に破られるまで続いた。同年のアカデミー賞では『シンドラーのリスト』で作品賞、監督賞を受賞する。スピルバーグは、この作品の製作に意欲的で報酬を断っている。
1994年にドリームワークスを設立。
1998年に『プライベート・ライアン』で、2度目のアカデミー監督賞を受賞する。
1999年4月に南カリフォルニア大学のロバート・ゼメキス・センターに50万ドルを寄付した。

2000年代
2001年に英国王室より、ナイト爵を授与された。
ドリームワークスの経営者としての活動が多くなり、監督作品を出すペースもやや遅くなりつつある一方でプロデューサーとしての活動が盛んになり、『トランスフォーマー』や『イーグル・アイ』で大ヒットを飛ばす。3年ぶりの監督作であり19年ぶりの続編となる『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』では興行的には成功したものの、ゴールデンラズベリー賞で最低リメイク及び続編賞を受賞する不名誉な結果となった。
近年の活躍 編集 近年では、パラマウント映画との関係が悪化するなどで契約上のトラブルが多くなり、長年温めている企画であるエイブラハム・リンカーンの映画も制作に取り掛かるまでに時間を要したが、2011年秋にようやく撮影開始となった。その後は2年間で監督作3作品を公開し、その内2作品が2年連続でアカデミー作品賞にノミネートされるなどの活躍を見せている。
2013年2月には第66回カンヌ国際映画祭の審査委員長に就任し、5月15日から26日の間で審査員長を務めた。「映画が世界共通の言語であることを長年に渡って証明し続けてきた、最も権威ある映画祭の審査委員長を務めることを大変光栄に思っている」と語っている。
2012年1月には旧約聖書に記される古代イスラエルのモーゼを描く映画『エクソダス:神と王』の監督にほぼ決定したと報じられたが、2013年3月に降板が決定した。
2013年5月にはアメリカの狙撃手の実話を映画化する『アメリカン・スナイパー』の監督に就任したと報じられたが、8月に降板したと、Deadlineで報じられた[7]。
2015年、大統領自由勲章を受章。
2015年12月、新映画会社アンブリン・パートナーズを設立。パーティシパント・メディア、インドのリライアンス・グループ、カナダのメディア企業エンターテイメント・ワンと共同で創設し、アンブリン・エンターテインメント、ドリームワークス、パーティシパント・メディアの3つのレーベルを用いて映画やテレビ、デジタルコンテンツを製作する予定。



作風
(IMDb Steven Spielberg http://www.imdb.com/name/nm0000229/bio の翻訳転載)
暗いシーンの中で強烈な懐中電灯の光を使う。それはしばしば、空気中の埃や霧などで輪郭のはっきりしたビームとして描かれる。(『ジュラシック・パーク』『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』『E.T.』)
画面上の人物が、画面外の何かを凝視する。(『ジュラシック・パーク』のグラント博士がブラキオサウルスをはじめて見るシーンなど)
太陽の映像(『インディ・ジョーンズ シリーズ』『太陽の帝国』『カラーパープル』『プライベート・ライアン』)
子供を何らかの危機に陥らせる。(『ジュラシック・パーク』など。)
第二次世界大戦に言及、引用する。(『ジョーズ』の巡洋艦インディアナポリスに関する話など。)
ディズニーの映画、音楽、テーマパークに言及、引用する。
高い頻度でピアノが重要なシーンを際立たせる要素として使われる(『シンドラーのリスト』『プライベート・ライアン』『マイノリティ・リポート』)
車のバックミラー越しに重要なことが描写される。(『激突』、『ジュラシック・パーク』など)
特殊視覚効果を多用する。一見気づかれない部分に使っていることもある。『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』以降、ほぼすべての映画を、ジョージ・ルーカスとの関係によってILMを使っている。例外的に『ターミナル』のみデジタル・イメージワークスが担当した。
デジタルを使わず、フィルムで撮影する(同様のスタイルの監督は、マーティン・スコセッシやオリヴァー・ストーンなど。近年では『タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密』など例外もある)。
作中の家庭は離婚家庭であることが多く、父親は不在であるか、無責任なもののように描写される。「離れ離れになった家族」という構図が頻繁に登場する。これはスピルバーグ自身の両親が離婚していた体験が反映されていて、「私の映画は、両親が離婚した子供たちに向けられたものだ」と語ったこともある。
子供部屋が汚く、物が溢れており、あちこちに玩具や服が散乱しているのは、スピルバーグの幼少期の子供部屋を参考にしている。また、スピルバーグの両親はしょっちゅう喧嘩していたため、うるさかったのでスピルバーグは子供部屋へ籠り、ドアの隙間には布団を詰めて防音していた。
あまりズームを使用しない(黒澤明の影響だと本人は語っている)。ただし、『E.T.』と『ジョーズ』ではアルフレッド・ヒッチコック流の「めまいズーム」を使用している。
異文化の登場人物間のコミュニケーション(『未知との遭遇』『アミスタッド』『E.T.』『カラーパープル』『ターミナル』)
監督作品はアクション、ロマンス、サスペンス、コメディ等様々な要素を盛り込まれ、視覚効果も駆使したヒット作が多い。1980年代半ばからよりドラマ性の強い作風