→小倉智昭(72) | オレサマのブログ
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小倉智昭






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1900年ショック!ラブラブ!日生

出身


しょぼん出身大学学科
大学学科
ビル学歴

ビル




レギュラー
番組










鬘疑惑は冷めたな~




小倉智昭

鬘疑惑は冷めたな~



1900年ショック!ラブラブ!日生

秋田県出身
ビル職歴
ビル職歴




レギュラー
→特ダネ




2016-00-00→テレビ晴れ
テレビ晴れ




単発


テレビテレビテレビ
2016-00-00→テレビ晴れ
テレビ晴れ






愛称 オグさん
出身地 日本・秋田県秋田市
(本籍地・香川県丸亀市)
生年月日 1947年5月25日(69歳)
血液型 B型
最終学歴 獨協大学外国語学部フランス語学科卒
所属事務所 オーケープロダクション
職歴 時事通信社[1]社会部記者→東京12チャンネル(現:テレビ東京)[2]アナウンサー→フリーアナウンサー
活動期間 1970年 -
ジャンル 情報・バラエティなど
配偶者 あり
公式サイト プロフィール(PDFファイル)
出演番組・活動
現在 『情報プレゼンター とくダネ!』など
過去 『世界まるごとHOWマッチ』
『どうーなってるの?!』
『小倉智昭の夕焼けアタックル』
『嵐の宿題くん』など
その他 オーケープロダクション取締役
アナウンサー: テンプレート - カテゴリ

小倉 智昭(おぐら ともあき、1947年5月25日 - )は、日本のフリーアナウンサー、タレント、司会者、ラジオパーソナリティである。元東京12チャンネル(現:テレビ東京)[2]アナウンサー。オーケープロダクション取締役。身長は173cm。体重は75kg。趣味、特技はゴルフ。東京都練馬区在住。既婚。
来歴・人物 編集 生い立ち 編集 帝国石油の技術者だった父親と[3]、鹿児島市出身の母親のもと[4]、秋田県に生まれた[5]。
世田谷区立梅丘中学校出身。「友達を多くつくるために、勉強よりも体を鍛えること」という父親の方針のもとで育ち、子供の頃からスポーツ好きだった。そのため陸上競技の記録を伸ばすことばかり夢中になり、成績は体育だけが跳び抜けて良く、それ以外は平凡なものであった。中央大学附属高等学校では陸上部に所属した[3]。大学進学時、中央大学は「陸上部で嫌いだった先輩が行ったから」という理由で進学せず、上智大学を受験するも不合格。最終的に獨協大学外国語学部フランス語学科へ進学した[3]。獨協大学でも陸上部に所属し陸上競技会に出場した後、東京都陸上競技連盟から国体出場の通知を受けたこともある[3]。しかし大学陸上部は2年で退部。足を怪我したことや、当時バンド活動で十分稼げるようになっていたからだという。バンドではボーカルとベースを担当していた[3]。幼い頃から吃音症に悩まされ、後にアナウンサー職に就いたのは、吃音を克服するため、あえて喋ることを仕事とする道を志したためであるという[3]。
東京12チャンネルアナウンサー 編集 アナウンサー試験では文化放送は1次選考、フジテレビは最終選考で不合格[3]。最終的に東京12チャンネル[2]へアナウンサーとして入社した。高校生のころから競馬をやっていたため競馬に詳しかったことから『競馬中継』実況アナウンサーとして活躍し、毎週土曜日午後のワイド番組『ザ・ロンゲストショー』の中で競馬中継を担当した[6]。予てから小倉の実力を認めていた山城新伍が司会を務める『独占!男の時間』にも起用された[7]。競馬ファンから「競馬中継なら小倉」と言わしめるほどであったという。しかしながら、競馬実況アナウンサーとして周囲より早く出世したことや、後輩への競馬実況術を指導したことが当時のスタッフや同僚アナウンサーから反感を買い[8]、さらに当時人気番組である一方で「ワースト番組」上位にも挙げられていた『独占!男の時間』への出演を巡り(最初は競馬コーナーのみの担当だったが、その人気からレギュラー出演となった)、上層部と衝突を起こすようになる。
フリー転身 編集 大橋巨泉が『大橋巨泉の日曜競馬ニッポン』(ニッポン放送)をスタートさせるにあたり小倉を起用することを決め、巨泉のスカウトに乗る形で29歳のときに東京12チャンネルを退社し、フリーアナウンサーとして大橋巨泉事務所(現:オーケープロダクション)に所属した。このとき前妻と離婚した。フリーランス転進後は仕事が入らず鳴かず飛ばずの状態が続いた。当時について小倉は「税金なんか当たり前、養育費も公共料金の支払いも滞納が続いた」「質屋と古本屋には本当にお世話になった」という状態が続き、電気・ガス・水道は止められ、電車賃が払えずアパートまで歩いて帰宅し、電車賃を工面するため開店前の古本屋を叩き起こしては本を売り現金化する日々が続いた。時折、父親から食べ物の差し入れがアパートのドアノブに引っ掛けてあり飢えを凌いだ。また、給料の前借りが日常的であったことから「バンスの小倉」とあだ名を付けられた。
その後、古巣であるテレビ東京の『タミヤRCカーグランプリ』での軽快で個性的なナレーション(自称「小倉のお兄さん」)で小中学生からの注目を集め、さらに『小川宏ショー』のリポーター、『アイ・アイゲーム』(フジテレビ)や『世界まるごとHOWマッチ』(毎日放送)のナレーションが転機となる。『RCカーグランプリ』や『HOWマッチ』では甲高い声と早口で洒脱なナレーションで名前を知られた。当時のキャッチフレーズは “七色の声を持つナレーター” であった。
また、ラジオパーソナリティとしても頭角を現し、文化放送『とことん気になる11時』(1984年 - 1987年)、『小倉智昭の時計の針はいま何時?』(1987年 - 1991年)、『小倉智昭のニュースアタックル』、『小倉智昭の夕焼けアタックル』(1992年 - 1999年)など、平日の帯ワイド番組に長期に亘って出演した。
フリー転身後もしばらくの間は、公営競技のレース実況を手掛けており、競馬以外でも日本選手権オートレース(第10回、第13回)、第36回日本選手権競輪などで実況を担当している。
司会者として 編集 ラジオパーソナリティでの話術ぶりを評価され、『キャッチ』(日本テレビ、1989年 - 1992年)、『ジョーダンじゃない!?』(フジテレビ、1992年 - 1993年)、『どうーなってるの?!』(フジテレビ、1993年 - 1999年)などのワイドショーに次々にメイン司会で起用され、着実に足場を固めて行く。
そして1999年4月にスタートした『情報プレゼンター とくダネ!』(フジテレビ)で、司会者としての地位を確実なものにした(就職活動当時の1970年、小倉はフジテレビジョンが第一志望であり、入社したら朝のワイドショーを担当したいと入社面接時に話していたが不合格に終わったため、『28年来の願いが叶った』と、番組スタートの記者会見の場で語った[9]。また、フジテレビが(自分を)新卒採用していたら高額なギャラを払わなくて済んだのにとも発言している。
2003年『とくダネ!』上で問題になったピラミッドなど、世界遺産に対する日本人観光客の落書き被害の特集を小倉は大声の「一喝!!」で説教をした。また2008年イタリアや世界各地での日本人や他国人による世界遺産落書き問題は後年、他メディアでも再び取り上げられた。 また2003年番組『とくダネ!』上でファッションデザイナー、ドン小西と対峙した折にも、明らかに一般とは違う特異な雰囲気を醸し出す人物に対して引いた行動を見せている。
また、『とくダネ!』の裏番組だった『はなまるマーケット』(TBS)には出演できないため、2000年に『はなまるマーケット』の姉妹番組として深夜に放映された『ウラまるカフェ』(TBS)にゲスト出演して薬丸裕英とのトーク共演を果たしている。
小倉自身が若い頃陸上競技をやっていたこともあるためか、マラソンに対する造詣は深く、フジテレビ系列のマラソン中継(北海道、大阪・名古屋の両女子と奇数年の東京、並びに国際千葉駅伝)のゲスト兼応援団長をダブルで出演している。
かつて小倉は『小倉智昭の夕焼けアタックル』最終回で、「今(当時)の年齢を考えても、この先10年以上続く番組を担当することはもうないかもしれない。」と嘆いていたが、その直後に始まった『とくダネ!』が2009年4月に放送開始10年を超え、初めて10年を超す長寿番組の司会を担当することが出来た。
Sagooooワークス調べの「実は朝から見たくない朝の顔」(100人調査)ではジャスト半数の50票を獲得し1位に輝いた。見たくない理由として「とにかく偉そうな上から目線の言い方が不愉快ですから。朝からどころか1日中見たくないのが、この人ではないでしょうか」、「自分がどんなに嫌われているのか知っているのか? 性格の悪さが前面に出ている」[10]。
2016年5月13日、初期の膀胱がんを公表し、翌週の5月16日から手術のため1週間休養[11]。17日手術、21日に退院し、23日に番組復帰を果たす[12]。
2016年7月28日、『とくダネ!』の