やはりいろいろと思うもので | 重金属備忘録

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日々のいろんなことを忘れないように!片言隻句の積み重ね&大いなる独り言☆

今年は例年になく、こうするぞーっ!というような、

 

意気込みというか、気合いみたいなものが、

 

自分の内側でグルグル渦巻いているのはあります。

 

 

自分の頭で考えたり、紙にまとめたりして、

 

結構わかりやすくなってきたかなという思いもあります。

 

 

あとは、動きながら気づくことが多いことでしょう。

 

 

そして、多く言われているようなことで、

 

自分の思い、それがかなえたい願望のようであれば一層、

 

口に出して言っていくことが重要だよというのがあります。

 

 

願望でも感情でも、おそらくそうなのでしょう、

 

傍目から見て、この人は何を考えているのか、

 

身近であれば、それはわかるに越したことがないわけですが、

 

しかし、それはある一面においては控えるべきか、

 

そのように思い至ったこともひとつあります。

 

 

自分が興味がある(しかもその度合いが強い)からといって、

 

その興味がある状態を言っていくのも良いですが、

 

必ずしも伝わるわけでもないなという気がしてきました。

 

 

たとえば、最近有紀くんの新しいプロフィール画像が、

 

Twitterで披露されましたが、その様子を言っても、

 

言った相手に興味がなければ、仕方がないような感じです。

 

 

髪色含むお団子ヘアとか、着ている衣装とか…。

 

 

こちとら17年とか18年という長さの熱心さなので、

 

自分の思う強さが、場合によっては押し付けになるのでは?

 

そう思うと、迂闊にモノを言うものではないなと思いました。

 

 

最近で言えば、紫雷イオさんが写真集を出したそうで、

 

それに付随して思うこともないわけではないわけですが、

 

そういうのも、そっと思うにしておくのが良いのでしょう。

 

 

この、言った方が良いのと、言わない方が良いの境目は、

 

その人との心の距離感、接する頻度、話せる内容など、

 

どちらがどうするべきかというものでなく、

 

その時のお互いの作用によるものですが、

 

まずは自分が言いたいのかそうでないのか、

 

言うべきかそうでないのかを判断する必要があります。

 

 

ここで、内田樹さんの敬語についての言及があって、

 

この発想を採るのが今は良いなと思いました。

 

 

これはブログには載ってはいなくて、

 

街場の現代思想」(文春文庫)にあるだけのようですが、

 

「敬」は「身体をよじる」という意味が本来だそうです。

 

 

ここからは、多少自分の解釈も含みながら、

 

ある程度、要約して進めてしまいますが、

 

論語にある「鬼神は敬してこれを遠ざく」という表現では、

 

鬼や神のような、自分の力ではかなわないような存在には、

 

敬意を表しながらも、そっと遠ざけるという意味合いで、

 

これが野球でも見られる「敬遠」の語源になっています。

 

 

なるほど、自分自身は人との距離感が基本的に遠く、

 

なかなか近づくことがないのが悩ましく思うこともあれば、

 

それはそれで恩恵を被っていることもあったのだろうなと、

 

意外と、"人ならざるもの"からの災厄を逃れていたのか、

 

そのように解釈して思うこともできるわけですね。

 

 

なかったことについては、顕在化していないから、

 

結局、何があったかはわからないままになりますが、

 

それは、事後的にそっと手を合わせておくのが良いのでしょう。

 

 

それは、普段から言葉を大切にすることを是としていたり、

 

対峙する相手との関係を大切にしたいという思いだったり、

 

だからこそ、敬語を重用しているのだなというような、

 

物事の道理が前後しながらの行程ではあっても、

 

やってきたことは理に適っていたのだなと思います。

 

 

そうなると、何でも明け透けにモノを言わない傾向が、

 

ある一面では強まっていくことになりますが、

 

そこで折衝しても仕方がないので、

 

基本的には、アルカイック・スマイルで、

 

静かにやり過ごすのが良いと言えそうです。

 

 

自分の中にも、怨嗟や遺恨など何の「しこり」もないように、

 

静かに微笑んで、成り行きに任せるだけになります。

 

 

呼吸と水の流れに従うかのように、ただそう振る舞うのみです。

 

 

正直に言うばかりが親切でもないし、

 

ひたすら秘匿するばかりが能ではない、

 

その中間の"淡い"を私はたゆたうわけですね。

 

 

このあたりの、「話す」ことについても、

 

ひとつ興味深い知見が得られたのですが、

 

それはまだ言うに及ばずという状態です。

 

 

これは、自分自身がまだよくわかっていないことですし、

 

言うに表すほどのものを持ち得ていないことでもあるので、

 

そのうちに、ひょっこり書き記すことになりそうです。

 

 

乞うご期待となるよう、気長にお待ちくださいませ。

 

 

ここまでは、本音と建前にも通じるような、

 

言うことに関しての配慮に傾いていいましたが、

 

最初の方に書いた、言葉にしておくと良いようなところでは、

 

これは一面の真理でもあって、適切には取り入れたいわけです。

 

 

そういうことで言えば、今年はどうしたいか、

 

今年をどういう一年にしたいのかについて言えば、

 

「辱知の栄を賜る」機会の多いものであるよう、

 

また、多くの知見を得て「拳々服膺」していきたいなと、

 

先に言葉ありき、そして形成るという具合にしておきます。

 

 

CHIEさんのブログでの"手帳の使い方"においても同様で、

 

物事は、しかめっ面ばかりで取り組むだけのものでもなく、

 

きっとそういうことになっているんだろうなというわけです。

 

 

いろいろ思うと、いろいろあるもので、

 

逐一、こうしてまとめていけるかは定かではありませんが、

 

できるだけ、随時ひとまとめにしていくようにしていきます。

 

 

できると良いなではなくて、できるっしょ!

 

そういう気概で取り組んでいきましょう☆