1.

 

「中国の武術は対練が終わった後に始まる」という言葉は、大きな感動を与える。中国の’狭’は武術を重んじないという言葉もようやく理解できた。中国の武術は人々を集めるための一つの道具に過ぎず、その武術の本乃至形は軍隊の儀式や体操に近いということだ。中国武術に対するこの非情な蔑視に近い描写は、おそらく中国人であれば決してしない、外部者の優れた洞察であろう。李零は孫子を扱った自分の本のタイトルとして李小龍の言葉を借りて、「唯一の規則(は規則がないということ)」または「兵不厭詐」と名付けたが、これは崇高で優雅な表現でありながら、「中国の武術は対練が終わった後に始まる」には及ばない。

紙の上で兵法を論じた人々は多いんだが、兵法が現実の中で一つの文化となった場所は中国だ。紙の上で読者が受ける衝撃は『文化ショック』には及ばない。兵法を当たり前のように頭で理解する人も、対練で勝った者を会場の外で、襲撃するために武器を持って集まる中国人たちの姿には驚かざるを得ない。では一体なぜ対練をするのだろうか?そう問うならば、あなたは自身が中国の平面的な知恵を理解していないことを示しているだけだ。あなたはそんな対練は意味がないのではないか、と思うかもしれない。しかし、そう言うとき、あなたは対練にはない意味が対練の外にあると前提している。それが中国人とあなたの違いである。中国人にとって意味はどこにもないのだ。対練も意味がなく、対練の外の実戦も意味がない。逆に、対練も權謀術數であり、対練の外の実戦も權謀術數である。会場を設け、観客を並べ、盛り上がりが上がったり下がったりする対練になぜ意味がないだろうか? 対練は強者を選り分ける劇場であり、人々はそれにふさわしい道徳的に合理的な反応を示すだろう。思想と実践が一致し、名実が相応することは動かし難い事実である。勝者は強者だ。その『強さ』だけが意味があると言うだろうか?それとも、外の『実戦』を重視する立場に立って対練の勝者の『強さ』は偽りの強さだと言うだろうか? 対練の勝者の強さは劇場の強さである。では実戦の勝者も劇場の強さである。対練では対練でしか得られない利益や利得があり、利用できる奇正形勢がある。外では外でしか得られない利益や利得があり、利用できる奇正形勢がある。人生は終わらない演劇であり、演劇はそれからカタルシスを感じるイメージではなく、リアリティそのものの連続した流れである。恨みと怒りは解消できるときに解消しなければならぬ、一人を見れば一人を殺し、二人を見れば二人を殺すことこそが爽快で、満足で、快快そのものであると言える。これがカタルシスの周りを舞うギリシャ人とは異なる、中国式強者の姿であり、大丈夫の心理状態ではないか。

金瓶梅でも紅樓夢でも、各話の終わりや途中で「この話はこれで終わりにしよう」という表現がよく登場する。男女が雲雨之情を交わし、楽しむ。そして語り手は「この話はこれで終わりにしよう」と述べる。突然かつての雲雨之情が完全になかったかのように、まったく関係のない話題や、数日前に亡くなった使用人の母親の葬儀の問題などが登場する。ロシアでは人々はこう言う。「すべては永遠だった、消え去るまでは」。中国では人々はこう言う。「この話はこれで終わりにしよう」。そして全く異なる人々によって全く異なる出来事が起こる。雲雨之情を交わしていた人々が消え去る。まるで存在しなかったかのように。最初からその二人は生まれていなかったかのように。これが武田泰淳が語った「滅亡ずれした女」の見る世界である。「滅亡ずれした女」の一人である呂后について、司馬遷はこう書いている。

 

太后欲殺之, 不得閒. 孝惠元年十二月, 帝晨出射. 趙王少, 不能蚤起. 太后聞其獨居, 使人持酖飮之. 犂明, 孝惠還, 趙王已死. 於是迺徙淮陽王友爲趙王. 夏, 詔賜酈侯父追謚爲令武侯. 太后遂斷戚夫人手足, 去眼, 煇耳, 飮瘖藥, 使居廁中, 命曰「人彘」. 居數日, 迺召孝惠帝觀人彘. 孝惠見, 問, 迺知其戚夫人, 迺大哭, 因病, 歲餘不能起. 使人請太后曰:「此非人所爲. 臣爲太后子, 終不能治天下.」孝惠以此日飮爲淫樂, 不聽政, 故有病也.

 

ドストエフスキーはしばしば「もし神がいないなら、人間は何でもできるのではないか」というテーマで、自身の主人公たちに長広舌を振るわせた。それはロシア人が残忍さで中国人に遅れを取っているからではない。神を信じていてもロシア人は残忍だった。また、神がいないからこそ、呂后が’残忍’だったとも言えない。孝惠は泣き、病気になり、暗君になってしまう。が、司馬遷の行間には驚きも大したこととして扱う感覚もない。「居數日, 迺召孝惠帝觀人彘」。’人彘’と呼ばれる呂后の命令に応じてやるように書かれているこの文から感じられるのは、共感と皮肉である。呂后が行った行為への嘲笑であり、弱い孝惠への嘲笑であり、呂后を理解する自分自身への嘲笑であるだろう。「此非人所爲」。孝惠はこう言ったが、確かに人間である呂后は大きな反撃なしに、自らの政治力に相応しい天寿を全うした。そのような気弱なことを言わずにはいられなかった孝惠こそが自らを傷つけた。実際、老子が言うように(司馬遷は黄老思想の信奉者であった)「貴以身爲天下, 若可寄天下, 愛以身爲天下, 若可託天下」であるのだ。聖人を輩出した一族は「正常な」一族ではあり得ない。老子は呂后と彼女と同様の無数の中国人を深く理解したことだろう。司馬遷も呂后を深く理解している。私たちを驚かせるのは呂后が犯した行為だけではなく、むしろ、その行為を記録する司馬遷の筆法である。それは必ずしも神を信じない者の筆法ではない(神を信じていようといまいと、実際には関係ない)。対練で勝ち取った相手の流派の選手を殺害するために武器を持って待ち伏せする者の筆法である。

 

2.

 

明治の優れた学者たちが、我々の常識を超える程、一般的に徳川漢学の系譜を継承する人々であったことだけは留意しておく必要がある。幕末には平田國學、徂徠学、朱子学、陽明学、水戸学、そしてこのいろんな学派を多様な比率で取り混ぜた折衷学派が乱立して、実に百家争鳴の状況であった。天皇の臣(農政官僚)であり、民俗学者の柳田國男は、「筆を持った武士」の中でも独特な存在である。 ここでは、柳田の、武士の貴族-戦士文化を拒絶する特異なアプローチ、姿勢を紹介する。

 

しかもその喧嘩とても、大部分は変則なる一種の社交術に過ぎなかったのである。(...) 起源は古からうが、必要はおそらく後に加わったのである。尤も今残っているのは脅迫や襲撃、其他計画の陰険で動機の複雑な、従って怨恨の永く消えないものばかり多いが、普通流行していたのはもう少し愛嬌のあるものであった。第一にその機会が祭礼や芝居相撲、中でも花見には喧嘩はしなければならぬもののようになっていた。即ち大抵は酒を飲む昂奮の日であって、その問題というのがいずれも出来合いの、後には酒の上とでも解するより他はないものであった。そう言っては悪いが、いつも仲裁人の幾らでも居そうな場処が多かった。見物は無論男女どもに群れをしていた。五分か七三かの差があっても、一方が全敗する喧嘩も少なかった。若干の怪我人と稀には死人も出ぬ位では真剣でなかったが、本来はそれだけの危険を価に払って、求めていた次の効果があったのである。飯よりも喧嘩が好きだという男、或は人の喧嘩を代って買うという者もあったそうだが、それがもし単に自分の男をあげ、勇気を証明するだけの動機であったなら、多分その利己主義を賤まれずにはいなかったであろう。それよりも大切なのは、社会上の効果、即ち新たなる知人を増して行く喜びであった。巧みな仲人の双方から尊敬せられ、礼を言われた理由もそこにあった。喧嘩は事実においては求めていた一つの機械で、仲直りの盃は即ち今まで他人であった多人数を、直ちに冷淡以上の関係に繋ぎ合わす力であった。(...) 不自由千万な話には相違なかったが、これ以上手短に相互の価値を認め、目勝ち目負けの不愉快な対抗を打ち切って、人を平等の交際に入らしむる方法の、他には見つからなかった時代があったのである。(柳田國男、『明治大正史』5章)

 

柳田は一般人(常民)の専門家であった。彼によれば、’普通の人々の喧嘩’とは、派閥の名誉のためには、相手を殺したり、自ら命を絶つことも気にしなかった武士たちの文化とは何の関係もなかった。武士たちはもちろん、敗北した相手の流派の剣術家を集団で襲撃して殺害したりはしなかったのであろう。柳田は一見、武士の文化や、中国の武術文化とも無関係な喧嘩の社会的影響を強調しているように見える。そして、「人を平等の交際に入らしむる」場を開かせるこの喧嘩の役割は、結局、幕末維新期に儒学が果たした役割といくつかの意味で同じであり、これが赵园が述べた「道学的平等」や、渡辺浩が述べた「デモクラシー」と繋がっている。柳田の慎重な文体を乱すならば、「喧嘩は社会を平準化する」とも言える。柳田のこのような指摘は、中国を見るのに有益な視点を提供している。

道家、法家、兵家に関する一般的な言説が、依然として政治(戦争)の「激しさ」(中国語ではリーハイ、即ち’厲害’)に過度に集中されている傾向を、再び検討する必要がある。 中国人は何でもできると信じられている。 どんなに過激で激しい、凶悪な行為であっても、中国人は平然に断行する。 養生、治国、軍備のために、食べないものはなく、切り離せないものもなく、離れることのできない場所もなく、滞在することのできない場所もないのだ。 すべての伝統的な道徳は、天下とその天下を支える「名のない道」の作用によって、その絶対的、宗教的な価値を失い、子供たちの人形遊びのようなつまらないものになってしまう。「厲害」というのは伝統的な道徳の立場から考える限り「厲害」だというのだが、武田泰淳の言う通り、中国人の「厲害」と言うのはどこでも見つけれる、偏在する「道」のような感じがする。「中国の武術は対練が終わった後に始まる」という言葉は、「厲害」の核心を捉えています。

しかし武田泰淳や李零ですら「目勝ち目負けの不愉快な対抗を打ち切って、人を平等の交際に入らしむる方法の、他には見つからない」という感覚に十分に注意を払っていなかったのだ。『風媒花』で武田は次のように書いた。

 

峯が昔、俺にそう言ったことがあるよ。日本人全体が中国人になるか、中国人全体が日本人になるかしなけりゃ、中日両国の間には血生臭い事件はたえないんじゃないかってね。あんたの言うのはその意味なんじゃないか。つまり血生臭さの中で仕事をしようとしてるんだろう。恐怖と戦慄を手段にして、融合とか化合を考えているんじゃないのか。流し合った血潮が両方から流れ寄って、一つ血に合流するという… (武田泰淳、「風媒花」)

 

武田の「化合」と柳田の「交際」、武田の「恐怖と戦慄」と柳田の「愛嬌」、武田の「流し合った血潮」と柳田の「仲直りの盃」。対練が終わった後、冷兵器での戦闘によって、両派閥は仲直りの盃を交わし、容易にお互いの価値を認め、平等に交わる機会を得ることができる。帝国とは、そのような仲直りの盃の交換行事が重なって成立されたものとも言える。

仲直りの盃を交わす行事において重要なのは敗者の度量である。敗者が喜んで勝者に恨みを捨て、心を開いて和解するためには大きな度量が必要だ。(もちろん、勝者も敗者を踏みつけるのではなく、平等な交わりの相手として見なすために度量が必要な場合もある)ニーチェはこの過程で発揮される敗者の精神的な能力を弱者のルサンチマンと皮肉り、同時に人類の最大の悪(その悪を最もよく代表する民族はユダヤ人であると書いた)がこの精神的エネルギーから生じると警告した。それは彼が主にキリスト教を敗者の事例として想定しているためである。しかし、敗者の度量に不必要な意味付けを取り除けば、私たちは柳田のように、より公正に話すことができる。本来、喧嘩はそのような度量の発揮を無意識的に期待してきた一般的な伝統と社会によって後押しされていたのだ。イエスとピラトは互いに勝者と敗者としての不愉快な対抗を打ち切って, 平等に交わりを持つために仲直りの盃を分かち合う儀式を行うことができなかった。ピラトがイエスを処刑したからである。彼らを代わってキリスト教徒とローマ皇帝が仲直りの盃を交わしたのは4世紀の出来事である。これを双方が互いを利用しようとする関係の問題に還元することもできるだろうが、柳田の視点から見ると、長期間にわたって双方の喧嘩を黙々と仲裁し、言葉を交わさなくても注意深く和解の機会を狙っていた背後の普通の社会の力が重要であったという別の理解が浮かび上がる。その視点から見ると、権力機構がキリスト教を押しのけたことと、キリスト教がそれに凄惨に抵抗したことも「飯よりも喧嘩が好きだという男」の「愛嬌」であり、人類の「酒の上とでも解するより他はないもの」、即ち「男女どもに群れをして」見物する、「それだけの危険を価に払って」「次の効果」を求めた歴史である。和解とは一時的であり、互いに優位を占めるために教皇権と皇権(または王権)が持続的に争ったという観点は、柳田が退けるものである。一体その全ての喧嘩が何のためだったのかを説明できない(またはすべてが単なる '権力意志'、「単に自分の男をあげ、勇気を証明するだけの」卑俗な利己主義によるものと説明される)観点が、哀れみに沈む、孤立した多くの人々のために何の用があるのかと、柳田は疑問に思うだろう。キリスト教の苦難のすべての山と谷を荒廃的な平原に変えてしまうこの士大夫の独特な '常民民俗学'は、喧嘩の勝敗、権力の維持の有無に執着しない点で法家、兵家と対立している。また、彼が語る常民の無意識の伝承を道家的自然と理解することも誤解になる。老子が言う無為自然は、それを理解し実践するために極めて高いレベルの '人間力' を要求するためだ。(物のあわれを重視した本居宣長が老子をそれと区別しながら、それを漢心として非難したのもそのためである)荘子は確かに、糞尿にさえ道があると言った。 '普通の人々' は決してそのようには言わない。柳田は '普通の人々' と呼べるカテゴリが実際に存在している、と考えた。それを「常民」と呼んだ。常民の日常の中に深く掘り下げて民の実情を研究することを重視した点で、彼は典型的な皇帝(天皇)の官僚であり、士大夫の一人であった。過去の歴史を通じて現在の問題を解決しようとする姿勢も儒者的である。「和」を強調したのも、’日本的’だと見なすこともできるが、私はむしろ儒将の吳起の「不和於國不可以出軍,不和於軍不可以出陣, 不和於陣不可以進戰,不和於戰不可以決勝」という言葉を思い起こす。柳田は教化という表現を使わない。しかし、彼が '昔はこうだった' と書き、また 'これを明らかにすることは必ずしもこうするべきだという意味はないが、最近まで日本人はこうして生きてきたということほど、今後どうするかを考えるためにも知っておく必要があるのではないか' というように慎重に書いていたことはもちろん教化の意志を表現する彼独自の文体であった。

柳田学を例えばマルセル・モースの人類学より非科学的で、ナショナリズムに汚染された民俗学と批判するのは、このような立場から再検討される必要がある。ハルトゥーニアンは柳田が、日本という原風景を実在させるように書いたとして批判した。その時、彼は一方で柳田と類似した人類学、そして柳田を批判する彼自身の立場、批判的な人文学の科学としての権威を肯定し、他方でネーションとしての日本と昭和政治史の展開を結びつけている。私の議論では後者が重要であり、政治と科学の未分離がなぜ危険なのかを示す例として、日本ほど検証されたサンドバックは1945年以降存在しないという理由で、ハルトゥーニアンの主張が自然に受け入れられてきたことが問題の核心である。儒学は政治と科学を分離していない(西洋人は自分たちが近代人であると信じながら、そして彼らはこの2つをホッブズとボイル以来分離してきたと信じながら儒学の前近代性を指摘し、様々な問題がそこから発生したことを証明しようとしてきた)。柳田は儒学を修めた士大夫であり、彼の民俗学は東アジアの伝統的な経世論の延長線上にある。彼が日本を語ったことは、士大夫が天下を語ったことと変わりはない。ここには、日本を天下と呼んだ日本の士大夫たちの特殊な状況が介入されている。孫歌は、欧米人が「中国の民族主義」と呼ぶものは彼らが考えているものとは異なるとし、中国を民族主義的に見るべきではないと述べたが、同じことを日本について言うのはできないと言う偏見に対して考える必要がある。もし中国大陸の非民族主義的(天下的)な現実にもかかわらず、中国の知識人が民族主義的な姿を見せたのであれば、逆に日本列島の民族主義的な現実にもかかわらず、日本の知識人の非民族主義的(天下的)な側面についても話すことができるかもしれない。柳田が「ネーション」という「共同幻想」を創造したと言うよりも、むしろ天下=列島という「共同幻想」を創造したと言うべきで、そうすれば誤解を避けることができるかもしれない。

文革キッドであり、孫子兵法の最高権威者である李零は、中国人の特性の一つとして、君子報仇十年不晩、恨みは必ず返し、返す時はすっきりするまで容赦なく殺してしまう(比例の原則は機能しない)という点を挙げている。戚夫人は呂后と和解することができなかった。司馬遷は武帝と和解することができたのか?司馬遷を主人公とする或る中国作家が書いた小説では、架空の和解が成される。その小説の中で司馬遷と武帝は対等な人間として一緒に酒を飲みながら互いの誤解を解する時間を持つ。これは邓小平以来、中国の資本主義化、全班西化、マオ主義への裏切りによって現れた逸脱、反中国性に過ぎないか?屈原は和解することができず、汨羅水に身を投げ、伍子胥は和解することができず、平王の死体をむち打った。明末清初の士大夫は和解することができず、子孫の出仕を禁じた。漢族の士大夫は清末、ついに君子報仇十年不晩を叫び、滅滿興漢を実践した。漢族と満洲族が対等に仲直りの盃を交わすのを論じることが如何にできるだろうか? むしろ武田泰淳の凄惨な表現のように、「流し合った血潮が両方から流れ寄って、一つ血に合流する」というイメージが説得力があるのではないか?武漢戦域で中国農民の首を日本刀で落とすこと、文革の最中、反動分子に追い込まれた校長を縛り上げ、毎日拷問して死に至らせることなどが 「愛嬌」 であるなんて、武田泰淳や李零にとっては同意し難い話に違いないであろう。

しかし、それは、その2人が '普通の人々' の度量をやや過小評価するのかもしれない。和解というのは、時には喧嘩よりも恐ろしいものである。三島由紀夫はクーデター軍と帝国軍の間の喧嘩を防ぐために、「両方やめろ!そんなら僕が死んでしまう方がまし」という、朝ドラマの台詞みたいなものを自殺で実践する人物を『憂国』で描いている。柳田が語る「双方から尊敬せられ、礼を言われた」という「巧みな仲人」たちがどれほど苦々しい、恐ろしい存在であるかを、マーティン・マクドナは『イニシェリン島の精霊』でうまく描いている。『雨降って地固まる』ということわざが、現実で実践されないときに作動し始める '普通の人々' の言葉のない圧迫は、自然災害のように巨大で、止められない、重すぎるものだ。

当初、伍子胥は申包胥という人物と友達だった。伍子胥が逃げ出す際に、「私が必ず楚を倒す!」と言ったので、包胥は「私は必ず楚を保存する!」と答えた。伍子胥の兵士が楚に入ったとき、楚王を探しましたが見つからず、代わりに楚の平王の墓を掘り、遺体を取り出し、300回むち打ち、その後やめた。包胥は山中に逃げ、人を送って伍子胥に「あなたの復讐がこれほど激しいとは!人が多ければ天も勝つが、最終的には天が人を打ち砕くと言います。あなたはかつて平王の臣下として忠実に仕えましたが、今、亡くなった人を侮辱しています。天罰は容赦ないでしょう!」と言わせた。伍子胥は「私のために包胥に謝罪してください。私は『日は沈んでいるが、道は遠い。逆なことだが、行うべきだった』と言ってください」と言った。包胥は秦国に行って危機を知らせ、秦国に救援を要請した。秦国がこれを受け入れなかったため、包胥は秦国の宮廷の庭で昼夜泣き叫ぶ。7日間昼夜を問わずその声は途切れなかった。秦の哀公はこれを哀れんで、「楚は無道であるが、このような臣がいる限り、豈存続しないか?」と言い、500輌の戦車を送って楚を救った。

柳田は列伝的な歴史を嫌った。「最終的には天が人を打ち砕く」というのは結局平凡な多数が’多い人々’に勝つという意味である。「天道」とは’常民の道’に違いない。申包胥から儒者の姿をうかがうことは難しくない。喧嘩は仲直り、交流の拡大を目的としているにもかかわらず、伍子胥はそのような伝統を認めていない。伍子胥は平王と和解する意思がなく、平王およびその追従者たちに、自分と和解する意思を呼び起こす意志もなかった。そのような伍子胥を「普通の人々」が黙って見過ごすはずはなかった。申包胥は「普通の人々」を代表して(儒者はもともと「普通の人々」の代表者であるのだ)、彼らの意志を行っただけである。 「7日間昼夜を問わずその声は途切れなかった」。柳田の一生の仕事は、結局、この泣き声と同じであった。結局、彼のために伍子胥は楚国を滅ぼすことができなかった。また、伯嚭は、「伍子胥は人が凶暴で無慈悲で残忍です。彼の恨みが大きな災いを招かないだろうか恐れがあります」と述べて、最終的には彼によって伍子胥は自決しなければならなかった。司馬遷が伍子胥の死を惜しんだのは当然である。司馬遷という人物は、魯迅の表現によると、文章を少し知っているというだけで、他人をすぐに軽んじる傲慢な文人の典型だから。大学の授業でも、自分が文章を少し多く読んだといって口がうずうずして我慢できず、公然と論じなければ胸がかゆくなって耐えられない性格の学生があるのだ。司馬遷は、まさにそのような性格で、いつも傲慢な態度を持ち、天下の前で堂々と物言いをし、混乱を引き起こす知識人であり、文字によって法を乱す儒者の典型であった。(もちろん、本人は黄老思想を好んでいたけど)。柳田はこのような、混乱を引き起こす自惚れた知識人を嫌った。彼が文学をやめた理由の一つもそこにあった。彼は自由民権運動についても軽蔑した。「その当時の自由というのはわがままということになっていた」と言った。「士化」された武士たちが自由民権運動を一貫して支持していたと考えるのは誤解である。民権と国権は区別されず、新政府と野党の立場の違いは後に整理されたものほど大きなものではなかったというのが90年代以来の通説だ。柳田はその複雑な時代の中で、明治日本の申包胥になりたかったのだ。

 

3.

 

周恩来が中日国交回復会談で強調したのは、中国の民衆と同様に日本の民衆も日本の軍国主義の被害者であったというのだった。これは、長江流域で多くの中国農民を蹂躙し、焼き殺し、斬首した数多くの日本兵士が、その中国の農民たちと同様に、日本の軍国主義の被害者であったという意味だった。もちろん、それだけで全てが終わるわけではない。しかし、どれだけの日本の戦争体験者が、中共当局のその一言をいかに熱望し、空しく苦しい余生を過ごしていたんだろうか。まるで潜水別れに当たって、パニックに陥った孤独な人のように。彼らは最後の喧嘩の記憶だけを持ち、どこかに存在する中国側からのどんな相互理解の発言も聞くことができなかった。或る仲直りは、到底いくつかの平凡な人々が生きている間に成し遂げられるわけがない。しかし、平凡な人々は歴史のすべての時期に底流として流れながら、結局いつかは祖先たちの願いを実現させるだろう。喧嘩は、それがどれほど残酷で過酷であっても、結局は、一部の人々が考えるほど深刻なものではないのだ。それは結局のところ、友達になりたい気持ちの一つの表現に過ぎない。喧嘩が支配と被支配をもたらし、敗者を奴隷に、勝者を悪辣な権力者にすると考えるのは簡単だが、そうしたものが必ずしも平凡な人々の日常的な思考のあり方を真に反映したものではなく、むしろ恐れ多い知識人の軽率な判断に過ぎないのではないか。帝国は(日本の場合も中国の場合も)結局、喧嘩を経て、あらゆる人間集団の平等な交流と相互理解を拡大してきた。柳田はこれをカント式の「自然の奸智」のような用語で説明してはいない。彼はこの点を、谷間ごとに据えている村々で、明治初期までも容易に見つけることができた、普通な日常事を通じて述べる。柳田は確かに中国については語らず、中国をよく知っているとも言えない。しかし、私は彼を批判する人たちとは異なる意味で、彼が真の「帝国の官僚」だったと考えている。そして、明治以来、日本で日本の「帝国」を考えることは、同時に中国の「帝国」を考えることでもあった。血は川のように流れるだろう。すべての日本人が中国人になったり、すべての中国人が日本人になったりすることはあるはずがない。武田はそれが世界の正常な状態であるのをわかっていたが、また、それが平然に観照できぬ何の理由もないというのも分かっていたが、本当に平然に観照した経験が自分には一度もなかったという事実、その事実を必死に思い起こすことによってのみ、自分が進む道を確保できた。平凡な人々の中でも平凡な人であった大島泰淳が、どうして、周恩来のその一言を自分の心の奥から望んでいたのを認めることができたんだろう。

武田が日中戦争を扱う小説家になろうと決心したとき、柳田は『祖先の物語』を書いた。上海で武田が崩壊しつつある大東亜の夢を絶望と快楽の最中で無気力に享楽していたその瞬間、柳田は黙々と多くの普通の人々の鏖殺に対処する方法を考えていた。イエスは死んでいたのでピラトと和解できなかった。(復活したイエスはなぜピラトを訪ねなかったのか?)戚夫人は人彘になったため、呂后と和解できなかった。方孝孺は一族が鏖殺されたため、彼と明の皇室の和解は成り立たなかった。しかし、日本では死んだアメリカ人はもちろん死んだ日本人さえ供養する人すら鏖殺されることもまれではなかった。家中が消え去った。太平洋で死んだ日本軍を誰が供養するのか?彼らの怨恨を一体どうなるのか?軍国主義に対する、表現できない怒りを抱えて苦しい喧嘩を繰り返しながら死んでいった彼ら、その亡者たちの喧嘩が持つ「平等な交流」の機能をどう活性化させるのか?柳田の答えは、その亡者たちを生き残った者たちの養子として迎え入れるべきだというのだった。そうして彼らを供養することによって、やっと亡者たちを日本の土地で日本人たちと結びつくことができる。それこそが日本列島と日本人たちが亡者たちと仲直りの盃を交換できる唯一の方法だと柳田は考えた。それによって、平等な交流の拡大を求める亡者たちの声が活性化できる。『敗戦後論』の著者が不適切な方法で柳田を転用したことは理解できることだ。柳田もまた、日本人たちは分を超えて朝鮮や中国に対して、またはアメリカに対してこれもそれも命じたり要求したりするのではなく、日本人たち自らの問題から処理しなければならないと考えていたのだ。『敗戦後論』は日本軍の死者たちを復権させるべきだと主張した。これは完全に要点を外れたものである。それは、既に周恩来が70年代に行ったことである。その発言の重要性を『敗戦後論』の著者としてはどうしても知ることはできなかったであろう。武田泰淳や竹内好がなぜ70年代後半に、耐えて耐えて続けた後死んだ人々のように死んだのか、彼にとっては推測することが難しかったであろう。日本軍の死者たちは戦後の進歩派と戦って死んだわけではない。もちろん彼らは中国軍や米軍と戦って死んだのだ。しかし、その前に日本政府や、日本軍、上官たちや、先輩たちや、帝国軍の悪弊や、子供を軍隊に送る親戚や、隣人の軍国主義者や、友達のプレッシャーや、すべてに対するぞんざいな反抗の枠以外を提供してくれなかった大正教養主義の惨憺たる状況や、死の理由を説明できない日本帝国70年が蓄積した人文思想の貧弱さや、重要な時には姿を隠し沈黙する天皇の陰鬱な顔と、アジアに対する愛と熱情を持ち、国家と家族に対する責任感を持ち、名誉を輝かせ恥辱を避けるため、民族と同胞のアジア人たちのために、耐え、また耐えて戦い、また戦った。柳田が45年の空襲で燃える列島で黙々と考えていたのは、その喧嘩の意味だった。彼は絶望することもなくヒステリックになることもなく快楽に陥ることもなかった。そうするには、彼は戦争の恐怖と残虐さに無知であり、温室の中の観葉植物のように安穏な一生を送った。彼は伍子胥から身を引いた申包胥のように、自身の運命を無駄に使わないために、昼夜を哭顔として文章を書き、『祖先の物語』を磨き上げたことであろう。

中国の武術は対練の終わった後に始まる。そしてそれは仲直りの盃を交換する平等な交流の拡大に帰結される。それは同時に血が川をなし、死体が山をなすまさにそれを指すのである。