谷村新司さんが亡くなられたことを昨日知りました。
「昴」や「いい日旅立ち」、とっても美しい言葉で紡がれた歌が好きでした。
90年代の半ば、私自身がまだ20代だった頃。休暇のたびにリュックひとつ背負ってアジアを放浪旅行するのを楽しんでいました。ある年の休暇でマレー半島中央にあるジャングルへ行ってみたことがありました。シンガポールからマレー鉄道でKLへ向かい、KLからバスに揺られて4時間、更にそこからボートで2時間。世界で一番古い熱帯雨林だったかな。そこに唯一のホテルに泊まって一週間ほど過ごしました。
滞在中はひとりのガイドさんを雇いました。現地で生まれ育って若い頃からガイドをしてきたという英語を話すベテランの男性でした。誇り高いマレー人であり、マレーシアの自然を熟知されていて、しかしとても親切で素朴な感じのひとで。なんとなく黒沢明監督の「デルスウザーラ」みたいな人物として私の記憶に刻まれています。夜中にトーチライトを抱え、ジャングルブーツをはいて、ジャングル歩きにつれていってもらったり吹き矢で狩りをする先住民の人たちが暮らす集落に連れていってもらったり、この方のおかげで毎日わくわくはらはらのジャングル滞在でした。ガイドさんとは長い時間を一緒に過ごしたので、食事しながら、山歩きしながら、互いの家族のことや仕事のことなどいろんな話をしました。
ある日、そのガイドさんが「日本の『昴』という歌が好きだ」と話してくれたことがありました。さびの部分のメロディーを歌ってくれました。日本語の意味はわからないけれどとっても素敵なメロディだと思う、って言う。私が彼が歌った箇所を英訳してあげたら、そんな雄大な意味だったんだねってまた驚き喜んでくれました。
私が滞在していたジャングルに唯一あったホテルは電気も自家発電のみ、窓の外の川では野生の水牛が水浴びしていたり、原色の鳥たちが窓のガラスをつつきにきたりするようなところ。毎夜眠るときには数えきれないほどの虫の鳴き声がオーケストラのように聞こえて、朝は世界が真っ白な霧に包まれて・・、普段暮らしていたところとは全くの異世界でした。そして当時はSNSどころか携帯電話もあまり普及してなかった時代。なのに世界のこんな辺鄙なところにも谷村新司さんの歌が知られているということはちょっとした感慨と驚きでした。
ガイドさんがいうには私より数か月前に日本人女性二人が旅行でやってきたので案内をしたそうです。彼女たちとも「昴」の話をし、彼女たちが日本に帰ったら「昴」を録音したテープを送ってくれる約束をしたのだとか。しかし何か月待っても結局テープは届かなかったよ、とがっかりした表情で話してくれたことがありました。それを聞いてちょっと胸が痛みました。日本の生活は慌ただしい。のんびりとした時間が流れる密林世界とは違って、その日本人旅行者たちも日常に戻ったら、そういうことも忘れてしまったのかもしれません。ガイドさんはとっても素朴な世界の人。ひそかに心が傷ついているなら同じ日本人として申し訳ないし、残念な記憶ははやく上書きしないといけない。じゃあ、私が送ってあげるよ、って約束しました。
当時私はオーストラリアで働いていました。日本ではないので簡単に日本人歌手のCDなんて手に入りません。休暇後、オーストラリアの自宅に戻った私は日本にいる従妹に電話し、「昴」をテープに録音してオーストラリアに送ってもらいました。それを再度、マレーシアのガイドさんあてに送りました。せっかくなので私なりに歌詞を全て英語に翻訳してそれも同封しました。
昔はとってもスローな時代です。数週間してガイドさんから手紙が届きました。無事テープが届いたよ、と。毎日英語の歌詞をみながらテープを聴いているよ、とも書いてありました。もう30年・・まではいかないけれど四半世紀は昔の思い出です。
10年くらい前にそこのジャングルのホテルはどうなっているのかなと思ってネットで調べてみたことがありました。その後、そこには華僑の資本が入って随分豪華な観光地に様変わりしてていっぱい観光客がくるようになっているみたいで驚きました。当時はお金ではなくてタバコをその地域の長老格のひとに持っていって入らせてもらった先住民の居住区は、「一日〇円で吹き矢体験」ができる観光地になっていました。そこに暮らすひとたちの仕事・収入は増えたと思うのでそこは良かったでしょうが、あの数百万年も手つかずで保たれてきた自然がだいぶ変わってしまったことを思うとちょっと寂しいなとも感じました。谷村さんの訃報で昨日はそんなことも思い出しました。谷村さんのご冥福をお祈りしたいです。写真がないので数年前に撮影したコスモスの花を。