鶴ヶ城。外に出ました。手前の南走長屋は木造で当時の工法で復元されています。鉄筋コンクリートの天守閣と違って往時の雰囲気を感じられるように思いました。

 

 

ちょっとぎょっとしましたが。笑 数年前のNHK大河(八重の桜)の出演者らが着用した衣装が展示されていました。同志社を設立した新島襄の妻・八重さんは会津藩の方術師範の三女でした。

 

 

長屋のところから出て石垣の上に。新緑のトンネルができていてとてもきれい。

 

 

地上からみる本丸跡。

 

この先に荒城の月の碑がありました。

 

荒城の月の作詞者・土井晩翠は仙台の青葉城、そしてこの会津若松城(鶴ヶ城)をイメージして歌を作ったのだそうです。そういえば荒城の月の碑は作曲者・滝廉太郎の出身地、大分の岡城にもありました。

 

 

 

 

この位置、鶴ヶ城の撮影スポットになってます。

 

 

茶室・麟閣へ。

 

 

千利休の息子・少庵が建てたとされる茶室です。ホームページの解説によると、千利休は秀吉の怒りを買い、切腹させられましたが、利休の高弟のひとりであった蒲生氏郷が利休の茶道が途絶えるのを惜しみ、少庵を会津にかくまい、徳川家康と共に千家再興を願い出たとのこと。その後少庵は許され京都へ帰って千家を再興、現在の茶道につながりました。正門の上にある扁額は裏千家15代家元・鵬雲斎によるもの。確認してなかったのですが、表千家、武者小路千家のお家元らによる扁額があるそうです。このように一か所に三千家の家元による扁額が掲げられているのは全国でも珍しいとか。ここは三千家にとって再興の地であったわけですね。

 

追加料金でお抹茶をいただくこともできたのですが、そういえば博物館カフェでスイーツをいただいたばかりだったし、混んでたのでやめておきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お寺や茶室などで両手で持てるくらいの石に紐を結んでおいてあることがありますが、これは「通行止め」を意味するもので「ここから先は入らないでね」という印です。

 

 

この置き石の名前を知らなかったのですけれど、関守石とか止め石とかいろいろ名前があるそうです。

 

 

お茶室は城内でも見どころのひとつだったので、人が多く、あまり長居することなく出てきてしまいました。再び外へ。

 

御三階と指標があります。現在は阿弥陀寺に移築されている建物がここにあったそうです。

 

 

 

会津藩は江戸期の終わりに歴史の舞台になります。それも悲劇の。この後は藩校・日進館を訪れました。


 

江戸期の会津藩は