4月30日の関ヶ原陣跡巡りの続きです。この次に向かったのが福島正則の陣跡です。福島正則は秀吉子飼いの大名でしたが石田三成らと仲が悪くて家康の東軍につきました。陣跡は神社の境内の一部になっていますが、巨大な杉の木があってそれに驚きました。

 

 

関ヶ原合戦当時、この木は既に樹齢400年。それから更に400年もこの地にあったのですね。見上げて言葉を失うような威容でした。

 

 

 

次に向かったのは藤堂高虎/京極高知陣跡。共に東軍側です。陣跡は現在は中学校の校庭になってて当時の面影を感じるものはありませんでした。

 

 

江戸時代、藤堂高虎は私が以前に暮らしていた三重県津市のお殿様でした。また京極家は小浜のお殿様でした。京極高次(小浜藩藩主)は京極高知の兄弟です。

 

 

 

次に向かったのは宇喜多秀家陣跡。カーナビの指示通り走っていったらまたこんな杉木立の中に!綾部のあの山道トラウマが再現されそうになって、途中で引き返しました。

 

 

宇喜多秀家は西軍の副大将として1万7千人の兵を集めてこの地に陣を敷きました。関ヶ原合戦の後、死罪は免れたものの、八丈島へ島流しにされ、死ぬまで帰ることは叶いませんでした。合戦当時、秀家はまだ28歳。肖像画をみると家柄よし、眉目秀麗・高収入(大名なので)なハイスペックな好男子でした。八丈島で80歳くらいまで生きたと思います。人生の前半と後半でこんなに境遇が変わる人もいるのですね。秀家の妻は前田利家の娘でした。この縁から加賀前田家は江戸時代を通して八丈島にいる秀家の子孫に金銭的援助をしました。

 

 

そして最後に家康の最初の陣地、桃配山へ。上の地図では真ん中あたりにあります。現在は国道沿いの小高い山というか丘の上です。戦場全体を見渡せる場所にありましたが、関ケ原はとても広くてここからは笹尾山もとても遠いです。

 

 

 

合戦時に家康が使ったとされる腰掛石と机石。

 

 

当初はここに布陣したものの、戦況が思わしくなかったことで三成らの陣地に更に近いところで前進しました。

 

 

大名らはこの時に西軍につくか東軍につくかでその後の運命が大きくわかれました。薩摩藩(島津)や長州藩(毛利)は豊臣側の有力大名として西軍についたことで江戸期を通して冷遇され続けました。結果的に260年の鬱屈?が幕末には明治維新の原動力となりました。改めて・・歴史は面白いなと思いました。