旅4日目。河合継之助記念館を後にして次に向かったのは山本五十六記念館です。100mくらいしか離れてないのですぐに到着しました。今回、新潟への旅で一番印象深かったのがここです。
私が山本五十六について知っていたことは、連合艦隊を率いて真珠湾奇襲攻撃を行った人物。これが太平洋戦争開戦の火ぶたを切りました。しかし、実際の彼は開戦には反対していて、戦争の早期終結を願っていたこと。ハワイ奇襲でアメリカから恨みを買った山本は後にパプアニューギニアの密林で撃墜され、そこで亡くなったこと。
多くの名言がありますが、中でも「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。」という言葉が好きです。決してワンマンだったり独善的な人ではなかったのでしょう。
展示では五十六の生まれ育ちから、長じてからの経歴などが紹介されていました。アメリカ・ハーバード大学に留学し、その後も駐米大使館付き武官として、米国に長期滞在し、アメリカの工業力の凄さを目にしていました。それだけでなく、ヨーロッパ各地、カナダ、メキシコ、オーストラリアなど世界中を訪れていたことを知りました。当時の日本人で外交官でもここまで世界を見ていた人は珍しかったのではないかしら。ここは河合継之助と共通していると思いました。広く世の中を知っていたからこそ、彼は当時の日本の力を冷静に見ることができました。アメリカと戦争しても勝てるわけがないということも理解していました。でも当時の日本の世論は開戦へと向かう一方。彼ひとりの力では軍部の動きを止めることはできませんでした。
五十六の搭乗した飛行機は昭和18年4月、パプアニューギニアでアメリカ陸軍の襲撃を受け墜落、五十六はそこで戦死しました。平成元年(1989年)、パプアニューギニア政府の好意によりその飛行機の左翼が日本に里帰りしました。
館内の中央に五十六さんが登場していた飛行機のその左翼実物が置いてありました。
展示品のご紹介 - 山本五十六記念館公式サイト|新潟県長岡市 (yamamoto-isoroku.com)
左翼は機体からもぎ取られたかのようで端の金属部分がめくれあがり、日の丸の横には弾丸が貫通したあとも確認できました。結構大きい。11人乗っていたというものね。目にした時、胸に迫ってくるものがありました。アメリカ人の恨みも伝わってくるよう。暴力的に命が奪われることの残酷さを思い、言葉がありませんでした。感情が津波のようにどっと押し寄せてくる感じ。感無量ってこういう感覚なのかな。この4日間、新潟県内でいろんなものを見ましたが、一番心に刺さった光景が、この長官搭乗機左翼でした。
1984年時点でジャングルにこの左翼が遺されていた状況の写真も展示されていました。この頃にはまだ戦争の残骸というものがこのようなかたちで残っていたことに驚きました。戦争とは遠いものではなくて自分の生きた時代ともつながっていることを感じました。
この日は長岡市に寄ってここに来れて本当によかった、これからもできるだけ旅をして見聞を広げようと思いました。
記念館近くに五十六の生家(復元)がありましたので、そちらも見学に行きました。続きます。