不朽の名作「坂の上の雲」を識者ふたりが現代の視点から改めて読み解くという内容の一冊。私は学生時代にその作品の大半を読んでいたほど司馬遼太郎の大ファン。この本は発刊を知った時から予約していて、届いた日に一気に読んでしまいました。本書は小説の内容を肯定するばかりではいけないこと、司馬史観のフィルターを自覚する必要性も語られています。

 

小説に登場する人物はみんな若々しくて活気に満ちてます。それが右肩上がりの昭和の時代にマッチし、当時の読者たちは自分たちの姿を重ね合わせて読んだそうです。明治の時代には地域や周囲が能力のある子を育てようとする気概があり、エリートと大衆が分断されている現代と対照的であったと。この小説を読むことによって現代の社会が抱える問題が浮き上がってくるのではという指摘が大変興味深いと思いました。読み終えてみたら小説や明治という時代への理解が重層的に膨らんだ感じがしています。

 

また本書後半に日本の外交問題について指摘された部分があり、個人的にはそこがとても面白かったので抜粋メモしておきたいと思います。

 

落語に蒟蒻問答という演目があります。「同一の行為に対して関与している人々の解釈が全く食い違ったままでコミュニケーションが続けられている状態」を意味します。近世期における東アジア諸国間の外交は自覚的な蒟蒻問答だったと。お互いに相手を内心見下しあうどうしようもなく煮詰まった相互関係であると同時にそのことを顕在化させずに処理していく「成熟した外交の知恵」だった。近世の日本と朝鮮でも日本側は朝鮮を「朝貢」とみなしたが、朝鮮側は同使節を「日本という野蛮な夷狄を監視する手段」として捉えていたという。両国の認識が一致してないことを知ってるけれども放置することで紛争の発生を回避していたと。

 

落語にある偽僧侶と旅の僧とのやりとりみたいなことが本当に歴史上でもあったんだなあと。全ての認識を厳密にしようというヨーロッパ的な発想ではなくて、こういう曖昧さっていかにもアジア的な感じがするのですが、ある部分を濁したりテキトーにすることで全体には調和を保っていく、という考え方は意外とこの地域、我々の考え方にあってるのかもとか思いました。国家に限らず個人対個人の人間関係でも全てを詳らかにせず互いに(よい意味での)誤解があるほうがうまくいく・・ということ、これ、多くの人が経験則として知ってることですよね。ニコニコ

 

 

 

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ところでこれは最近購入したロイズのチョコレートスプレッド。ちょっと不健康ですがトーストの上にバターと併せて塗って朝食にいただいてます。濃厚なチョコレート味とバターの塩気が絡んでとても美味しいです。