大学生の頃、司馬遼太郎の歴史小説にはまり、当時読んだ司馬作品は100冊以上。中でも印象深かった作品が「坂の上の雲」でした。日清日露の戦いを背景に、明治時代に生きた人々の精神を描いた長編小説です。このごろは司馬さんの歴史観にも異論が出てますが、個人的には、いまでも好きな小説上位にある作品です。横須賀の戦艦三笠、正岡子規・秋山兄弟ゆかりの愛媛県松山市、東郷さんや大山さんが生まれ育った鹿児島の街、旅順戦で戦死した廣瀬中佐を祀る大分県の廣瀬神社など・・、日本国内の旅をするようになってからは小説で取り上げられた人物にゆかりある地をこれまでに訪れてきました。

 

舞鶴といえば、日露戦争時の連合艦隊司令長官・東郷平八郎が、それ以前に舞鶴鎮守府司令長官として二年間を過ごした地。当時の長官用の官舎が一般公開されているのを暫く前に知りました。ここ、一月を除く各月の第一日曜のみの公開なんです。伊勢の赤福・朔日餅と同じくらいアクセスのハードルが高いとこ。舞鶴は若狭のお隣の街です。せっかく近く住んでいる今のうちに是非行ってみよう!ということで、12月5日に訪れました。

 

 

場所は舞鶴市内、自衛隊官舎の敷地内だと思うのですが、カーナビを見ながら来たら違うお宅の前に辿り着いてしまいました。グーグルマップを使っても同じでした。近くに車を停め、看板の矢印を探しながら歩きました。

 

敷地に入ってから玄関まで砂利道が続きます。

 

和洋折衷の平屋が見えてきました。

 

 

玄関の受付で連絡先を書いて、体温を測ります。入館は無料です。ここ、東郷邸という名ですが、東郷さんだけでなく、歴代の司令長官が在任中の邸宅としていました。洋風家屋部分は仕事、来客応対用、和風家屋部分の一部を住居としているようでした。司令官の邸宅といえども、質素というのが第一印象でした。明治時代のイメージって質実剛健。あまりキラキラしてない感じです。こういう精神の在り方って好きです。

 

 

 

執務用の机。

 

応接室。

 

 

 

東郷平八郎元帥。

 

昔、映画化された時に三船敏郎さんが演じてらしたそうですが、雰囲気が似てる感じがします。10年ほど前にNHKでドラマ化された時は渡哲也さんが演じておられました。

 

左側、鈴木貫太郎海軍大将。太平洋戦争の終わりに首相を務められた方ですね。戦争は始めるのより、終わらせるほうが難しい。立派な方でした。右側は旅順で戦死された広瀬武夫中佐。

 

左側、秋山真之参謀。バルチック艦隊迎撃作戦の立案者。

 

右側は山本権兵衛海軍大臣。実質、日本海軍を作った人。


 

彼に限らず明治の偉い人たちは徹底したリアリストでした。日露決戦に臨んで東郷さんを連合艦隊司令長官に任命したのもこの方。日清日露戦争の勝利のあとにしっかりとした総括を行わなかったことが、後年の日本の不幸につながったと思ってます。そして、昭和の太平洋戦争遂行時には軍人の中に重鎮的な人物がいなくなっていたことも。

 

これは戦艦三笠の艦上の様子を描いたもの。

 

 

 

日露戦争終結後の連合艦隊解散式で東郷平八郎長官が読み上げた訓示が展示されていました。参謀・秋山真之の起草といわれています。秋山さんは日本海海戦に際して大本営に打電した「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」という電文が有名です。無駄のない簡潔でしっかり内容の伝わる文を書く方。

 

 

最後の一文・・勝って兜の緒を締めよ。「解散の辞」はその後各国語に翻訳されました。中でも米国のセオドア・ルーズベルト大統領はこの内容に感銘を受け、英訳分を自国の海軍の将兵たちに配布したといいます。

 

また、ここを訪れた時に知ったのですが、後年の太平洋戦争時、米国の太平洋艦隊司令長官として日米海戦で総指揮をとったニミッツ元帥。この方は東郷さんのことを大変尊敬され、師と仰いでいたそうです。(東郷元帥の国葬にも参列されたそうです。)

 

米国建国の精神(ピューリタニズム)は明治日本の精神と親和性が高い感じがしてます。もしかしたらこの時代は双方が互いを一番よく理解できたのかもしれません。この数十年後に戦火を交えることになるなんて残念な歴史の経緯です。

 

 

この日、東郷邸を訪れて改めて思ったのは、この時までの日本人はとても立派だったということ。しかし、終戦後、日本全部が勝利に酔いしれて、しっかり冷静な目で現実を見なかった。先人たちが神格化されてしまった・・そうした事柄がその後の日本をダメにしてしまったのではということでした。

 

続きます。