旅4日目。高山市内のホテルをチェックアウトして帰路へ。この時までは往路と同じく愛知・滋賀経由で若狭に帰ろうと思っていました。時期的に紅葉の美しいドライブウエイがあるとのことだったのでそこを走って。でも外へ出たら雲一つない青空です。やっぱりどこかに寄ろう。高山から白川郷まで50kmほどの距離です。高速を使えば一時間弱のドライブ。白川郷を経由して、富山・石川ルートで帰ることにしました。

 

現地に到着後は駐車場に車を停めて合掌造りの家屋が集まる荻町集落に向かいます。庄川にかかるであい橋。吊り橋です。ゆらゆら揺れてます。

 

 

白川郷には中学2年生の冬、スキー旅行の際に寄ったことがありました。でも当時の大人数での行動時のことはあまり記憶に残っていなくて。実質、初めての訪問ですね。

 

山間に大きな茅葺の家屋が点在する白川郷は世界遺産の里です。コロナ禍前はここも大変賑わって入場制限をかけていたというニュースを見たことがありました。ざっと里山を歩いてみて、やはり世界遺産登録の影響なのでしょうか、随分「観光地化」されているような印象を受けました。それでも今回は観光客の異例な少なさのおかげで、里山の風景を楽しむことができたように思います。一般公開されている家屋が何軒かあります。歩きながら撮影した写真をいくつか載せていきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

公開されている家屋は内部を見学させてもらいました。合掌造りって伝統的な日本家屋のイメージが覆る規模の大きさで、どっしりと重厚な建物です。ここも旧家。加賀藩の藩医も務めたお宅だったそうで、立派な什器、生活道具などがおいてありました。どこのお宅でも仏壇が立派だったのが印象的です。外国人の目からみたらさぞや興味深いでしょうね。随分前ですが日本を訪れた外国人の方の写真を見せてもらったら、霊柩車の写真がいっぱいあって驚いたのを思い出しました。わびさびの世界と思って訪れた日本で目にした壮麗な装飾が意外だったそうです。

 

 

 

 

 

合掌造りの建物はだいたいどこも同じ間取りで、一階が生活空間、二階に使用人の部屋、更にその上は蚕を飼うスペースという感じになってました。いまは蚕の代わりに当時の生活用品や農作業道具などが展示されてます。今回の4日間の旅で一番、ショックだったというか、印象に残ったのが実はこの説明書きでした。二階使用人部屋の前に貼ってあったものです。

 

 

使用人の部屋って子供の背丈くらいの高さなんです。大人だと直立できない。頭をぶつけてしまうほど天井が低いのです。その理由が上に書いてある内容と知り、驚愕しました。なにこれ。人権のない時代だったとはいえ、ここまで卑屈に生きなくてはいけなかったのかと。

 

大家族制度についても、この時代の大家族というのは近現代のそれとは概念が違い、開墾できる土地の少なさゆえ長男以外は嫁を娶れず、独身のまま長男宅で過ごすという暮らしです。実際のところ、ここにあったのは日本むかし話的な素朴な田園生活ではなく、厳しい環境の中で「生き残る」ことが最大の目標みたいな、かなり熾烈な日々だったのではないかと想像してしまいました。脳裏に浮かぶ心象風景は暗く陰鬱な感じ。

 

 

これは別の家で見たものだったと思いますが使用人の部屋の小窓。一階の囲炉裏が見下ろせるようになってます。高山市内でも現在でも寒い時期はマイナス20度くらいまで下がることがあると聞きました。街の中心でそうなら、山間の集落の真冬の寒さはどんなだったのでしょう。想像を絶します。

 

 

 

 

 

 

雪の重みに耐えて成長した木を梁に使用。寒い土地の木は頑丈そうです。こんなふうにわかりやすく説明がありました。

 

 

 

 

写真が多いので白川郷歩きは2回に分けます。この後、集落全体を見渡す展望台まで歩きました。