梅雨明けして土用入り。一年で一番暑い時期に入りました・・が、まるで命の危険を感じるほどの暑さです。外は多分35度超え。 去年の夏はこんなに暑かったかなあ。
7月16日。ゆかりんちゃんも私もまだ一度も行ったことがないということで、初めて近江神宮にお詣りしました。知らなかったのですが、数年前に「ちはやふる」で有名になったそうです。
ご祭神は天智天皇(中大兄皇子)。大化の改新を行った人です。天智天皇は都を近江大津宮に移しました。5年後に壬申の乱(天智天皇の弟・後の天武天皇VS天智天皇の子・大友皇子の戦い)が起こったので都がおかれたのは短い期間でした。確かここ、まだ新しい神社だと思ってたのですが、創建は昭和15年(皇紀2600年)。
地図をみると長い参道があります。しかし、この日は歩かず、そこを飛ばして楼門近くの駐車場に車を停めました。💦 鮮やかな朱塗りの楼門は京都の平安神宮みたい。その向こうにどっしりとした黒色の外拝殿がみえます。
拝殿に向かう前に楼門の周囲を。楼門からみる境内の外側。夏の木々がみっしり。むせるような夏の樹木、草の匂いがしました。
ふと、楼門の下から見上げた時にゆかりんちゃんが見つけたハートマーク。これ、他にもありましたよ。それで気になって調べてみたのですが、ここのお宮さんは恋愛・復縁を叶えてくれる神様でもあるようなのです。
自動車のお祓いをするところ。
結構大きな宝物館。
時間があったら入ってみたかったです。「時計館」と書いてあります。それに境内に日時計みたいなのがいくつか設置されています。
これもあとで知りましたが、天智天皇が近江大津京に設置した水時計が日本の時計の始まりになったそうです。この日を太陽暦で換算して6月10日が時計の日になったのだとか。
それぞれの場所まで何キロとか書いてあります。出雲大社とか伊勢神宮とか。その中に白村江の表記があります。天智天皇2年、百済VS唐・新羅連合軍の戦いで日本は百済を助けるために軍を送ったものの大敗したという歴史があります。その戦いの地が白村江。日本はここで負けたので朝鮮半島進出を断念しました。平家物語の後白河上皇とか太平記の後醍醐天皇とか・・南北朝時代くらいまでは天皇というのは御簾の向こうにおわす貴人というより、がんがん戦う首領のイメージ強いですね。話が変わって距離の話。ここから京都御所まで8kmしかないのですね~。やっぱり近いです。
伊勢神宮まで103km。信楽に都があった時期も。紫香楽宮まで23km。
黒い拝殿、どこかちょっとモダンな雰囲気?という印象。
石段をあがります。
この巨大な拝殿、すごい威圧感があるというか。下からみた流線形のデザインが素敵。
外拝殿の向こうにみえる内拝殿。この黒色と高貴な雰囲気は京都御所の紫宸殿を思い出します。私たち以外に誰も参拝者がいなくて、この静けさと重厚感を感じられたのがすごくよかったです。
賽銭箱があるのをみて、ここは神社であったことを思い出す。
もう一回天井をみあげる。
おみくじの箱。
百円玉いれるスロット。ここまで目減りしているってすごいなあ。
再び石段を降ります。遥拝殿。高松宮家の邸内社だったものを、高松宮家廃止に伴って移築されたもの。
これも初めて知りましたが、近江神宮って「カルタの聖地」でもあるのだそうです。その理由というは「百人一首の第一番の作者が天智天皇だから」なのだそう。
下右端の二條院讃岐の歌、これ、若狭湾のこと詠んだ歌です!以前に地元の友達から教えてもらっていたのですぐに思い出しました。昔の和歌には「袖を濡らす」という表現がよく出てきますが、平安時代の姫君はめそめそ泣いてばかりいたイメージがあります。この時代は高貴な家のお姫様に生まれても、女子はその人生を政治の道具に使われて、嫁いだ先は一夫多妻が普通で。自分の意思を通す・・とかない時代ですものね。
神楽殿。
帰りがけ、白砂にきれいに模様が付けられていました。帰りがけ、この上を歩くのが申し訳ないような気もちに。
初めて訪れた近江神宮は思っていた以上に重厚感がある立派なお宮さんでした。そして遠い昔の歴史にちょっとだけ思いを馳せました。さてこの後は再びびわ湖大津プリンホテルへ向かいました。続きます。
近江神宮公式ホームページ|総合案内 (oumijingu.org)