コロナ禍で強制的に立ち止まらざるを得なくなった世界。そこで著者が考えたこと。今回もたくさん付箋を貼りました。内容は西洋的な価値観が支配的な社会から日本を批判的にみている感じ。「批判」は「非難」と違って、代替案を提示する意味があり、決して責め立てる「非難」ではありません。著者の側には日本の文化や日本人に対する愛も感じます。私自身も西洋的価値観の国のひとつに何年か暮らしました。その経験を振り返ると、彼らの社会では考え方がとても合理的なので、割り切って物事を考えやすい。また「民主主義」という側面からみた人間の成熟度の度合いでは日本はまだまだ及ばない感じ。そういう社会からみた日本と日本人のこと。

 

以下抜粋メモ。

責任を伴った決断ができるかは、どれだけ熟考してきたかという経験値と比例します。

 

基本として「お願い」によって感染を抑制するという日本のコロナ対策は、どこに権力があって、どの組織が責任をもって発言しているかが、やはり曖昧です。その際たるものが「不要不急」という言葉。

 

イタリア人の中国への本音~「中国を今失えば、自分たちは野垂れ死にするかもしれない」くらいの自覚をしています。そしてそれは国が存続していくためにはやむを得ない一つの通過地点であることもわかっている。

 

終戦後しばらくの間、日本では文化的に非常にハイスペックな作家や映画監督たちが活躍しました。鑑賞する側も、特にインテリというわけではなくても、人間をとことん見つめた遠藤周作の小説などを読むのを普通のこととしていました。三島由紀夫が婦人向けの雑誌に連載、執筆しているような時代でもありました。文化の成熟がそれだけ進んだのは、戦時下で見て経験した現実を、同じ問いを繰り返すように自分のなかで何度も考え、咀嚼し、作品として昇華した人がいたからです。

 

様々な感情による経験値や想像力によて構成された自らの「辞書」の情報量が少ないということは先の見通しが立たないパンデミックのような問題が起きた時に、ぼんやりとした不安を自力で処理したり、巷に飛び交う情報を適切に疑ったり、ということができなくなるでしょう。つまり流言飛語や第三者の言葉にたやすく右往左往させられてしまう。自分の頭で物事を考えられない人が大半になった時に、社会に発生する不穏な現象がどのようなものかは、ナチズムやファシズムを振り返れば容易に想像がつくでしょう。

 

戦争という不条理を経験した世代の人が生きていた昭和の時代には「人生は思い通りにならない」、「何があっても落ち込まない」という考えが人々に根付いていた。→この世界で生きていく限りどんな思いがけない展開もあり。~現代の日本は「不条理」をはじめ「失敗」も「屈辱」も生きていくうえで必要のないもの、知らないほうがいいものという社会環境になっています。それは人間が本来もっている強さや臨機応変性や適応能力を脆弱化させていくことになる。

 

日本の人は自らが政治を知ろうと思うよりも、政治家が何かいってくれるのを待っているところがあります。しかし、その待ちの姿勢では民主主義は成立しません。

 

いまだに日本では「猜疑心」とはもってはいけないもの、良くないこと、としてとらえている風潮が強い。~ 自分以外の何かに責任を丸投げできる「信頼」に比べ、「疑い」には大いなる想像力と知性、そして自分の考えをメンテナンスする責任が問われます。そして民主主義国家というのはそもそも国民の猜疑心によって司られるべきだと思うのです。

 

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この本の中で印象に残った箇所。私自身も周囲からこの類のことを言われたことがあります。日本人には相手のことを深く知りもしないうちから「あの人はこんな人」と決めつけることが多いように思ってます。これは少しでも早く相手を自分の既知のカテゴリーに分類して安心したいという思いが裏側にあるからなのですね。そしてその行動を促す背後にあるものが「異質への拒絶感」だという。なんとなく納得。