堅田の街歩き。幸福を呼ぶ石の神社から徒歩数分。これまた立派なお寺に行きあたりました。蓮如上人ゆかりのお寺であるようです。親鸞の教えを継いで、室町時代に庶民にまで浄土真宗の教えを広めた蓮如はこの堅田の地を布教の中心地としていた・・ということを前回ここを訪れた時に知りました。堅田地区には蓮如ゆかりのお寺というのがいくつかあって、このお寺もそうみたい。でもこの案内版、「首」って何だ?
創建は南北朝時代とやはり大変歴史のあるお寺さんのようです。
境内に3人の銅像がありました。背後の僧侶は蓮如であるようです。前の二人は?何やら不穏な感じがします。
銅像についての説明を読みました。先の看板の「首」の意を知って衝撃を受けました。
蓮如の時代。三井寺に預けた親鸞聖人の御影を三井寺の僧がいじわる心を起こしたのか、返してくれない。「返してほしかったら、人間の生首を2つ持ってこいや」みたいな無茶苦茶なことを言う。親鸞の御影が当時の堅田の庶民にどれほど重要だったのかわからないけど、とにかくすごく大事なものだったのでしょう。堅田源右衛門という地元の漁師が自分の息子・源兵衛を犠牲にした。息子の生首を持って三井寺に行き、「もう一つについてはここで自分の首を落としてくれ」といったと。三井寺は観念して御影を返してくれたのだそう。
息子の生首を持って三井寺に現れる老人の鬼気迫る場面。想像したらぞっとしました。息子の生首を持っていくなんてあり得ない。しかし過去の事象を見るときに「現代の価値観」でその是非を判断してはいけないのですよね。その時代の背景、当時の価値観を理解した上で見ることが必要です。この時代、この父子の行動は美徳であった・・。銅像の前で暫く考え込んでしまいました。
また、この時代の寺院(という社会的ステータス)について。これも現代の観光地の対象みたいな目で見てもいけないと思います。昔の仏教勢力は政治的な存在で、京の政治にもゴリゴリと介入してきたりしてました。200年後の室町時代になっても、水運で栄えた堅田は延暦寺に上納金を払ってました。昔の仏教勢力ってやくざみたいな無頼の徒の集団という印象です。それに生首を要求する点なんかでも、権力を持て余して思いあがっている僧侶たちの様子が想像されます。
当時の寺院は社会にすごい圧力をかけてて、庶民を苦しめつつ、自分たちは甘い汁を吸ってたのでしょう。蓮如も仏教の徒ですが、奈良・平安時代からの既存の仏教が救済しない階層(庶民)に目を向けた当時の新しい宗教です。なので絶対多数の庶民の間に真宗が広まってきた時、やはり既存仏教の世界からかなり迫害されてました。この時代の仏教のことをよく知らないのですが、多分こんな感じの社会だったのかなあと思います。
そんな時代の力なき庶民の源右衛門と源兵衛親子の想いは・・と。政治的な思惑ではなくて、この人たちこそ本来の信心を持っていた人たちなのかもしれません。二人とも真面目過ぎてこんな結末は本当に辛いのだけど。
お墓がすぐ横に。またお願いすれば首級も見せてもらえるとのことでしたが・・今回はやめておきました。
お寺の周囲も白壁の蔵がたっていたり、街並みがきれいでした。キムチを買いにまたこれからも通いそうなので、また都度、ゆっくり歩いてみたいと思います。 そして仏教の変遷についても改めて勉強しなおしてみたいです。