敦賀港を前にした海浜公園。敦賀港の開港100年を記念した港湾整備事業としてできたエリアだそうです。大きな時計台がありました。道路を挟んだ先に赤レンガ倉庫。北陸側の冬にこんなお天気はなかなか珍しいこと。(通常、曇天がデフォルト。)
敦賀港の歴史や杉原千畝氏の功績を紹介した「人道の港」資料館を見学しようとここへやってきました。目の前の洋風の建築は大和田家の別荘を移築したものだそう。
確かこの建物だったはず・・と向かったら、ここは閉館されており、資料館は近くの別の場所に移転オープンしたとのこと。
新しい資料館はこちら。
杉原千畝氏が発行したビザを手にしたユダヤ難民が日本に降り立った「唯一の港」が敦賀港だったということを最近知り、もっといろいろ学んでみたいと思ったのが訪れたきっかけでした。旧資料館に比べても何倍もある大きさです。当時、敦賀港に建っていた4棟の建造物を復元したものだそう。
あいにく内部は写真撮影不可であったので以降の写真はありませんが、敦賀港の歴史と併せて1940年代に命のビザを携えて上陸したユダヤ難民の方々のこと、また彼らに接した敦賀の人たちの記録などが詳細に残されていて大変興味深い展示でした。また私自身も少し前になつみかんさんのブログを読むまで知らなかったことなのですが、1920年代に多くのポーランド孤児が来日していた地でもあったそうです。
当時の様子を映像でも紹介するシアターがありました。解説の声は敦賀ご出身の大和田伸也さんでした。
今回の訪問で新しく学んだこと、印象的だったこと:
1.明治~戦前、敦賀は有数の国際都市であったこと。鉄道が主な移動手段だった当時、この地は大陸ヨーロッパへの窓口的役割を担っていました。戦前、国連からの脱退を表明した松岡洋右はここからジュネーブに向かっていました。また歌舞伎役者市川左団次がモスクワ公演に向けて、マラソンの金栗四三がストックホルムに向けて敦賀港から発っていたことが当時の写真と共に紹介されていました。ナチの迫害を受けて来日したドイツの建築家ブルーノ・タウトも敦賀港に到着してます。これから想像するに当時の敦賀港はいまの成田空港みたいな存在感大の場所だったのかと。
2.1920年代にはロシア革命の影響でシベリアで家族を失ったポーランド孤児たち(768人)が敦賀港に到着していたこと。彼らは敦賀を経由し、赤十字の援助により東京に向かいましたが、孤児たちの上陸時、短い時間ではあったけれども、敦賀のひとたちは子供たちのために差し入れをしたり、休憩施設などを提供したりしたそう。
3.1940年代のユダヤ難民の上陸。これについては命のビザを発給した杉原千畝さんの名を知るのみでしたが、実際には日本側でも彼らの受け入れ、移動、宿泊、出国の手配対応などを行った数多くの協力者がいらして、ユダヤ難民救済に尽力されたことを知りました。
4.興味深かったのが敦賀に到着したユダヤの人たちに対する敦賀の人たちの感想、対応。年配の女性が赤色の服を着ていることが大変奇異に思えた、とか、ある婦人が巻いていた毛皮の襟巻からその動物の手足がみえて怖かった、とか。初めて接する西洋人の姿に戸惑う庶民の姿が想像されました。遠巻きに異人たちを眺める人たちがいる一方で、上陸時のユダヤの人たちにリンゴやミカンを無料で配った少年のエピソードも紹介されていました。地元のお風呂屋さんが彼らのためにお風呂を無料開放、その後の掃除が大変だったという話も。また地元時計店に質入れされた婦人用腕時計の現物が展示されていました。この時計が持ち主と共にどんな苦難の道のりを辿ったのか、想像すると胸が締め付けられるような思いに。持ち主の新天地での人生が幸せであったことを願いました。
5.敦賀を経由し、第三国に渡っていき、その後長命された方々、その子孫の方々からの感謝のメッセージ動画。ある女性が語っていた言葉に「一人の命が助けられたことで、その後生まれた子供たち、孫たち・・・その何倍もの命が救われました。」というメッセージが大変印象深かったです。ユダヤの人はもともと子だくさんで教育熱心。その子孫の方々には大学教授、弁護士、医師などがおり、社会に貢献する立場になっているとのこと。
私はこういう資料館にいくと、結構つぶさに見てしまうタイプです。ここでも時間を忘れて、動画をみたり、資料を読み込んだりしていました。閉館の案内を知らせる放送ではっ!と気づき、慌てて階下に向かいました。💦
外に出て駐車場に戻るころにはもう夕暮れ。
杉原千畝氏関連の展示は過去に彼の出身地である岐阜県八百津町でも見たことがありました。展示の規模はそこより大きく、八百津町のそれと同様、学ぶこと多い資料館であると思いました。また杉原氏が独断で行ったユダヤ人へのビザ発給は、当時の日本の同盟国ドイツへの敵対行為であり、日本の国策に反することでした。私自身が、歴史に埋もれていた杉原氏のことを知ったのは1990年代の前半でした。氏を紹介する民間のテレビ番組だったと記憶しています。のちに知ったのですが、杉原氏の業績を評価し、名誉回復、顕彰に尽力されたのが当時の外務政務次官であった鈴木宗男氏であったそうです。