田村神社の次に向かったのが東海道・土山宿。ここも国道1号線近くにあるので、寄り道してみることにしました。というか、国道1号線自体がほぼかつての東海道なのですよね。上の写真はネットからお借りしましたが、安藤広重の東海道五十三次・土山の絵です。土山は昔から雨が多い土地として描かれています。私の印象でも冬は滋賀の南部では一番雪が多く、普段でも鈴鹿峠にさしかかるこのあたりでは雨に降られることが多いです。
看板の写真、上が切れてしまってました。💦 街道を入ってちょっと進んだところに駐車場があったのでそこに車を停めて歩きました。かつては本陣2軒、旅籠44軒を数える大きな宿場町であったようですが、いまは古い建物がぽつぽつと残ってはいるものの、ひっそりとした静かな街道という佇まいで、この近隣の関宿のような人目を惹く感じはあまりない。でも観光客でごった返してないほうが却って良かったりもしますね。
多くの建物が建て替えられて普通の民家になっていますが、入り口にはかつての屋号を示す看板や石碑がありました。
数軒おきくらいに結構あります。往時はたくさんの人が行き交う活気に溢れた通りだったのかと想像されました。参勤交代の人たちも泊るし、商人など庶民の行き来もあって。大名や公家、勅使クラスが宿泊した本陣跡の一軒が残されていて普段は一般公開されているそうなのですが、ちょうど修復作業中でした。要予約とのことですが本陣跡には上段の間や庭園、宿帳や関札など当時使用していたものが残されていて見ることができるようです。
明治天皇が宿泊されたこともあり、ここで17歳の誕生日を迎え、近代日本で初めての天長節が祝われた場所でもあったそうです。
もう少し歩くと伝馬館。
江戸時代後期の民家を改装して一般公開されています。石碑によると、問屋宅があったそうです。旅役人がいた場所とのことですが、今でいう旅行会社&旅のコンシェルジュ的な業務だったのかな??
平成のころまで実際に人が住まわれていたそうです。展示品もですが、昔の家の立派な柱や梁が残っていてそれらが大変興味深かったです。
二階の展示。
東海道五十三次の各所の絵にあわせてそれぞれの街の模型(お盆サイズなので盆景というらしい)が展示されています。これ安藤広重の浮世絵が3Dになってるみたいで面白かった。
有名な京都の三条大橋。
もうひとつの部屋には各街道の名物が展示されていました。土山のお隣、関宿の名物、「関の戸」。このお菓子、求肥餅の周りに和三盆がまぶしてあって今も人気のおみやげ。大好きな和菓子です。
もうひとつ、三重の桑名の名物、なが餅。素朴やお餅ですが内側に餡が包まれていて、これもとても美味しく、もちろん私の大好物。
別棟の建物に京人形100体で再現した大名行列の展示などもありました。
この街道をざっと歩いてみて唯一営業されていたそば屋さん。
お昼ご飯にお蕎麦をいただきました。お蕎麦をつける鴨汁が美味しかった!
建物は江戸時代の旅籠。高い天井の上に明かり取りの窓があり、昔の雰囲気があって素敵なお店でした。年配のご夫婦二人でお店をされていましたが、時節柄?お客さんは私だけでした。
さて次はココ。井筒屋というここもかつての旅籠。
森鴎外のお祖父さん、森白仙が旅の途中で亡くなった場所。津和野の藩医だったという白仙は立派な人物だったそうです。そういえば鴎外もお医者さんでした。それも陸軍の軍医で後に軍医総監になった超エリートでした。鴎外自身もその後、土山に立ち寄ったことがあったそうです。お墓はその後、子孫の方により津和野に移されていて、いまは供養塔が残っているそうです。このような歴史はその場所を訪れてみて初めて知ることだったりします。
その後、ふらっとのぞいてみた別の旅籠跡にいらした方とお話をさせてもらっていました。かつて地元の中学校で校長先生をされていた方とのこと。コーヒーをいれてくださり、近隣の神社のこと、名所のこと、ガイドブックにそこまで書いてないようなお話をたくさん伺うことができました。この内容が本当に面白かった。また、夏目漱石の「それから」に土山の記述があるんですよ、とその部分を見せてもらいました。その小説を読んだことがあったけれど、全然記憶にありませんでした。こんなことも新しい発見。お喋りをしているうちに私の中で最近静まっていた好奇心、知識欲がむくむくと蘇ってきました。時間を忘れて随分長居してしまいました。
ふと時計をみたら午後3時!まだその後、100kmくらい運転しないといけないので、お礼をいって、急いで帰途へ。ふらっと寄り道しただけ・・のつもりだった土山宿での時間は、とても収穫の多いものになりました。次はぜひ本陣跡を予約して訪れたいと思います。