本日も家こもりでやることがないのでパソコンの前に座っています。ここしばらくどこにもいってないため、ネタもなく、過去のことを思い出しながら何か書いてみようかと思います。
私が小学校を卒業しようとするころでした(昭和50年代)。ある日、学校から帰ってきたら家の中に外国人のお兄さんがいました。私をみるなり、人懐こい笑顔で「ハーイ」って片手をあげて挨拶するのです。
なんでうちに外国人?と突然の事態に緊張で固まってしまった私は挨拶を返すこともできず。そこに一緒にいた父親が「今日からうちに住むから。」と。
(その時の私の表情は多分こんなの。ブロ友さんが使っておられるフリー素材、使わせていただきました。https://www.irasutoya.com/ )
その当時、私が住んでいた片田舎の街に一軒か二軒、英会話スクールがありました。何を思ったか父親が英会話を習いに通っていました。そこに講師として来日していたアメリカ人の男性がまだ住む場所がないとかなんとかいってたみたいで、「それならうちへこい」と連れてきたという経緯でした。部屋と食事を提供する代わりに私や弟に英会話を教える、みたいな契約だったようで。私の実家は田舎のだだっぴろい家。都会の家と違って空間も敷地も十分すぎるくらいあります。加えて私の親は(私もその傾向を若干受け継いでますが)、なんというかとってもどんぶり勘定。ひとりくらい人間が増えたところで光熱費も食費もたいしてかわらん、という感覚だったみたいです。
ということである日、突然アメリカ人のお兄さんとの同居が始まりました。当時はホームステイとかホストファミリーとかそんなカタカナも一般的ではなかった時代です。彼の名はスチュアート。当時多分20代前半くらい。ニューヨーク出身のユダヤ系アメリカ人でした。私が大人になってからわかりましたが、全米トップ20に入るほどの優秀な大学にいっていたようです。これも後年、私が海外で暮らしていた時に学んだことですが、欧米では大学在学中や学校を卒業したばかりの年齢の頃、視野を広げるため、経験のためという理由で1年、2年くらいバッグパックをかついで世界を旅する人が結構いるんです。スチュアートも多分そのひとりだったのだと思います。
スチュアートは当初のうちこそ、母が作るご飯にお味噌汁という日本の典型的な朝食を一緒に食べていましたが、やっぱりこれは我慢ができなかったみたいで、変更の要望がありました。当時の我が家は和朝食と決まっていて、母も和洋両方作るのは面倒がり、「それなら自分で作りなさい」ってことになりました。で、スチュアートは毎朝キッチンに立って自分の朝食を作っていたのですが、私は彼がベーコンを何枚も焼いているのをみて、朝からこんな脂っこいのをいっぱい食べるの??気持ち悪くならないの?ってすごいびっくりした記憶があります。いまの子供なら旅行慣れ、洋食慣れしているからたいして驚かないことかもしれませんが昭和50年代の子供には驚きの光景でした。
私たち姉弟が彼から英会話を学ぶ・・という親の目論見は結局のところ、実現しませんでした。12歳だった私はとても恥ずかしがりで、彼が英語で話しかけようとすると、いつも逃げていたのです。弟も同じでした。英語を話すことはなかったけれど、スチュアートとは一緒に犬の散歩をしたり、庭でバドミントンをしたり、私の友達が遊びにくると一緒に遊んでくれたりしていました。そのうち彼のほうが私たち家族から日本語を学んでしまい、半年後には日本語ペラペラになっていました。
もうひとつ、スチュアートのことで今でも印象に残っているのは、アメリカにいる当時の恋人のことでした。写真を見せてもらったことがあるのですが、身長が180cmくらいあってヒールをはいて映っている姿が彼より高いのです。当時の私は男性と女性のカップルがいたら「男性は女性より背が高い」のが普通、だと思っていたので、こういうことが妙にカルチャーショックでした。時々、アメリカにいる彼女から便りが届いていました。それが手紙ではなくて音声を吹き込んだカセットテープなんです。これも私にはすごく新鮮でした。
そしてアメリカ人の彼は正座ができなかった。時々、家族で焼肉を食べにいっていたのですが、そこはお座敷だったため、彼だけ畳の上に座るのに難儀してました。応急処置として座布団を3枚くらい重ねて小さいソファみたいにして座っていたのですがその姿がなんだかおかしくておかしくて。(笑)
こんな感じで毎日が過ぎていきました。世間でいうホストファミリー、ホームステイというと、短期滞在する外国人をもてなして一緒に食事したり、イベントしたり、お客様をおもてなしするような感じのイメージがあるのですが、うちの家族とスチュアートの場合、全くそんなのはありませんでした。普通に家にいる同居人、って感じでした。お互いかなり淡々とした関係だったので長い間、一緒にいても互いに苦もなかったのかもしれません。時々何を思い立ったか数か月~半年くらいいなくなることがありました。多分旅行にでも行ってたのかもしれません。で、またある時、戻ってきて家にいる。私も、「あ、帰ってきた」って感じ。私の英会話力は全く伸びることはありませんでした。
突然いなくなっては数か月後に戻ってくる彼もアメリカに戻り、もう戻ってこなくなりました。別にこれといったお別れをすることもなかったような気がするので、あれ?最近スチュアートは帰ってこないなあ、、と思っていたら帰国してしまっていた、という調子でした。彼は両親には定期的に手紙をくれたり、電話をかけてきたり、コンタクトをとり続けてくれていたようです。最後にうちに遊びにきてくれたのは2002年のサッカーのワールドカップの時でした。うちに住んでいた頃は「お金のないアメリカ人の若者」だった彼でしたが、ユダヤ系の血はしっかり濃く?その後、地元ニューヨークで不動産業と貿易業で成功し、リッチなビジネスマンになっていたようです。帰国後、当時の恋人と結婚して娘さんをもうけたものの、その後離婚したと聞きました。
今だったらもっといろんな話をしたいし、もし自分にその年ごろの子供がいたら、それこそいろんなかかわりを持たせたかったかもしれないけど、当時の私は狭い世界に生きていて外の世界にそれほど興味を持っていなかったし、うちの両親もそこまで考えが及ばなかったのだろうなあ・・と。父親は当時から「将来は英語が必須になるからいまのうちから」とは言っていたものの、まあ、異文化の人が一緒にいたら、なんか面白そうだし、子供たちにもいい経験になるだろう・・程度の感覚でうちに来てもらったようなとこがありますし。ただ大人になってから欧米の人と接していてもあまり萎縮することがなかったようにも思います。目の前にいる人も一緒に暮らしていたスチュアートと同じ人たち・・って思うとびびらない。海外で働き、暮らすことにも全く抵抗がありませんでした。当時は意識してなかったけど、これがあの時の収穫だったのかな? あの時代の田舎育ちだった割には早くから日本人以外の人と接する機会がもてて、その後は外に目を向けるきっかけになったと思うので、今となっては感謝していることです。