先日、歴史学者の磯田先生、城郭考古学者の千田先生が近江八幡市にある安土城を訪れ、歴史を検証するという番組を観ました。

 

本能寺の変から13日後、信長の居城・安土城は謎の焼失をとげています。信長は好きな戦国武将に必ず名前が挙がる人ですし、実際に日本の歴史を大きく回転させた歴史上の人物で尊敬を集めていますが磯田先生によると、信長は今でいえばKYTP(空気を読まないトップダウン)の強烈キャラの人だったとのこと。それだけに家臣との間には心が通じない隙間が存在したと。超実力主義のやり方をとったためにそれまでの家臣をないがしろにする面もあったり、安土城の構造そのものが家臣たちを常に威嚇し、監視するようなものだったこと、など信長は家臣たちを信用していないし、家臣らもあまりにも苛烈な信長の性格に不信感を抱いていたのでは?と、大変興味深い考察、指摘をされていました。安土城全体の火災の名残から火をつけたのは天守内部に入れるごく限られた人物(身内)の手によるものではという推測でした。

 

本能寺が襲撃されたことを知った際、家臣らは驚きはしたものの、実のところ「ほっ・・」としたものを感じた人も中にはいたのじゃないかと。 

 

当時の信長は「英雄」というよりは「煙たい存在」だったのかもしれません。実際、私自身も10年前に安土城を歩きましたが、あれだけ日本の歴史に大きな貢献をしたはずの人のお城跡にどこか「打ち捨てられた感」があるのが妙に印象に残っているんです。秀吉のいた大坂城が今も有名な観光地になってたくさんの人が訪れているのと対照的で。最近、京都にある信長公のお墓を訪れた時もあれだけの人物のお墓があまりにもこぢんまりとしていたことも意外に感じていました。江戸時代に流行った浄瑠璃なんかでも、光秀を登場人物にした演目はあって結構人気なのに信長を扱ったものはないのです。江戸時代あたりは赤穂浪士に対するのと同じで光秀のほうが庶民の共感を集めていたのではないかと思います。

 

400年以上経った今だから信長のことをカッコいいと思えるけれど、同時代に生きてこの人とリアルな人間関係があったりしたら心落ち着く暇さえなかったかもしれません。


歴史の人物の評価が時代によってかわることも興味深いです。その評価自体が今の価値観を反映しているようにも思えます。

 

下は安土城の石段です。一段の幅が結構広いのは馬に乗ったままで天守まで登れるようにという設計だったそうです。この石段にはお地蔵様も横倒しに使われていてちょっと驚きます。キョロキョロ