だいぶ秋めいてきました。

気温が下がり、過ごしやすくなりましたが、まだちょっと蒸し暑いです。

暇に任せて過去のことをちょっと振り返ってみようと思います。

昔暮らしていた街のことです。

 

クローバークローバークローバークローバークローバー

 

随分引っ越しの多いこれまでの人生でした。

多分15-16回くらいは住居を変わる生活をしてきたと思います。

都会にも田舎にも海外にも住みました。

 

振り返ってみて一番思い出深い場所が

豪州シドニーで暮らしていた頃に住んでいた街です。

シドニーの中心街から電車で30分くらいの距離の移民の多い住宅街でした。

居心地よくて結構長く暮らしました。4~5年くらいいたと思います。

 

当時、私が働いていた職場は白人のエリート層が圧倒的に多く、

同僚の多くは高級住宅街があるシドニー北部に住んでいました。

日本人にも人気があり、駐在員や留学生、ワーキングホリデー組なども

治安のよい小ぎれいなノース(と呼んでいた)に住む人が多かったと思います。

 

当時の私はどちらかというと大勢の逆を行く(or 行きたい?)タイプで、

あまり日本人が住んでいない南に住んでいました。

理由の一つ目はせっかくの限られた期間の外国生活だったので

どっぷりとその国の文化にひたりたくて、

できればあまり日本人と顔を合わせない地域のほうが良かったということ。

二つ目はこれもせっかくの外国生活、

この国についてアングロサクソン的ではない

別の側面を見てみたいという好奇心からでした。

 

職場にいる人たちはイギリス系が殆ど。

多くがイメージするオーストラリア人です。

でも実際、この国には国籍にすれば

180くらいの国の人たちが集い暮らしています。

その辺、人種的にもっと多様性のあるところに住んでみたかった・・

ということで移民の多い街を候補地に探しました。

でも私は女性ですし、あまり治安が悪いと困るのでまあまあほどほどのエリアで。

日本の治安が10とすればだいたい7くらい。

西欧系は多分6割くらい?

あとはギリシャ系、中国系、アラブ系の多い地域でした。

気を付けないとちょっと危ないかな?というところはありましたが。

三つ目は日本と同じく下町の庶民的なエリアは

生活費が安いというのも魅力だったからです。

 

この街では本当に住民が親切でした。

ちょっと埃っぽくて洗練とは縁のない街だったけれど

シティから帰ってきて駅のホームに降りると、

なんだかほっと脱力するような。ニコニコ

 

駅から家に帰る途中、降り出した雨にたじろいでいると

全く見知らぬ年配のご婦人が「良かったら入ってく?」と

傘にいれてくれたりしました。

引っ越したばかりの頃も道に迷っている私をみつけた

若い大学生の子が一緒に家を探してくれたり。

いつも野菜を買うエジプト系の人が経営していた八百屋さんでは

私が好んで買う野菜や果物を他に売れてしまわないようとっておいてくれたり。

仕事帰りによく寄っていたピザ屋のイタリア系オーナーは

帰り際に「明日の朝ごはんに食べな!」と

その日の売れ残りのパンなどを袋にいれて持たせてくれました。

 

スーパーで買い物中でもよく話しかけられました。

一人暮らしらしいおじいさんから、

「今日の夕ご飯は何にするのかい?なんか簡単に作れるものはないかねえ・・」

みたいな相談をされたり、

背の低いご婦人から、

「ねえ、お嬢さん、一番上のあの商品取ってくれないかしら?」

って頼まれたり。

知らない人にも気軽に話しかける雰囲気があり、

そして気軽に誰かを助け、誰かから助けられる関係がありました。

 

スーパーのレジで支払いをしようとした時に

財布の中に入っていた現金が足りなくて

あっ!足りない!どうしよう・・滝汗と固まっていたら

後ろに並んでいた人が、それを察してか、さりげなく小銭を

キャッシャーにおいてくれたこともありました。

全然知らない人です。No problem!ってウインクして。

 

皆、本当にさりげなく助けてくれる。

そうされると自分も自然に困っている人がいると

助けなくてはという気持ちになるものでした。

 

最初はこの街でシェア生活から始めました。

2年半後は2LDKの部屋を一人で借りて住んでいました。

その間、当初、一緒に暮らしていたスペイン/フィリピン系の

ハーフのシングルマザーが実はフィリピンの大統領一族のお嬢さまだったり、

その後一人暮らししていた近所で家族同様に仲良くなった

中東からの移民のご家族が実は当時のイラク・フセイン政権から

政治亡命してきた人たちだったということもありました。

知った時はちょっと衝撃でした。目あせる

 

いろんな国の人たちと関わったことでの利点は何かと考えてみました。

やはりそれ以降、国際情勢のニュースなどを見るときの気分が

違うようになりました。

日本国内でも親しい友達が住んでいる地域のニュースが取り上げられたら

気になるのと同じで、世界の内戦や災害などもっと近く感じるようになりました。

 

日本での暮らしと違う点は、現地では人と親しくなるためのハードルが

とても低かったことでした。

 

日本の社会は社交辞令が多すぎて、何が相手の本音かわからないところが

ありますが、現地では基本的に複雑系な人とあまり出会いませんでした。

いろんな文化的背景の人がいるので、相互のコミュニケーションは

最大公約数的なとてもシンプルなものになる傾向が強かったこともあります。

 

おかげでコミュニティに溶け込むのも比較的容易でした。

ご近所からお料理のおすそ分けがあったり、私も何かシェアしにいったり。

週末になると自分の家にも近所の子供たちがよく遊びにきたりしていました。

20帖ほどもあった自宅のリビングはもう託児所状態ですごい様相でした。

カーテンが汚れるとか食器を割られるとかあまり気になりませんでした。

汚れたら洗えばいいし、食器を割ったら買えばいいし、と思ってました。

 

子供たちのお母さんもうちにきてテレビみて

お菓子を食べてわいわいがやがや、とても賑やかでした。

子供たちが遊びにきてくれるのが嬉しかったし、

若いお母さんたちとも損得なく、一緒に過ごせていました。

そういう場を提供できることもとても嬉しかった。

元来、たいして子供好きでもなく、神経質だった私なのに

あれほどオープンで子供たちに好かれていたのはなぜかしらと・・・キョロキョロはてなマークはてなマーク

 

考えてみました・・・。

人間として誰かの助けになれたり、

誰かが喜んでくれるのは正直にとても嬉しいことだし、

他人の親切を素直に受け取れることも幸せなことだと思います。

おそらくこの街では人としての「素」の喜びが、

普通に日常にあったのだろうなと思います。

私自身がまだ若かった頃なので、自身の無知ゆえもあっただろうけど

人生の中で一番、自分そのままの姿で暮らせていた数年間でした。

 

日本社会にいるいま。

一歩外に出たら社会に充満する「空気を読め」という

無言の圧力が大人になってもずっと苦手です。

苦手だけれども周囲に合わせて本音とはかけはなれた

上滑りの会話で毎日を過ごしています。

過去に戻りたいとは思わないですが、

たまにちょっとこういう時代が懐かしくなりますネ。ウインク