
ゴールデンウィークの後半、京都府舞鶴市にある
田辺城跡へ行ってきました。
私が住む福井県小浜市からは一般道を通っても
西方向へ車で一時間ほどの距離です。

田辺城は戦国期から江戸期にかけてのお城です。
別名舞鶴(ぶかく)城。
立派な大手門は元にあった場所とは違うところに再建されたもの。
二階は資料館があります。

内側は公園になっています。
子供たちが数グループ、楽しそうに遊んでいました。
緑も多いし、市民の憩いの場という感じでした。


築城主は細川藤孝。のちの幽斎です。
織田信長の家臣のひとりです。
古今伝授の担い手であり、
荒っぽい戦国時代にあっては珍しく
この人は文化人でもありました。
まず資料館に行ってこのお城のお勉強です~。


ボランティアでガイドをされていた方の説明が
とても詳しく、わかりやすく、面白かったです。
このお城は北は海に面し、二つの川に挟まれた
天然の要塞であり、それを認めた藤孝が
ここにお城を築くことに決めたのだそうです。
その時に家来がみつけた鶴の雛が成長し、
空へ飛んでいく姿がここの地名(舞鶴)の由来にもなったのだとか。
細川幽斎像。

この人は本能寺の変で明智光秀が信長を討った時、
身内同然の仲だった光秀からの協力要請を断り、
頭を丸めてしまいます。
光秀には天下取りの器量がないことを
すでに見抜いての行動だったといわれています。
このお城は関ケ原の戦いのときに注目を浴びます。

関ケ原の戦いの前哨戦の舞台となり、
石田三成方1万5千人の軍勢がこのお城を攻めました。
対して細川方、田辺城の中にはわずか500人。籠城戦でした。
九州方面からの軍は非常に荒くたいやり方で攻めてきたそうです。
一方で南方面からやってきた敵勢は敵とはいえ
実際には幽斎とお友達だったので、
かたちの上だけの攻めしかしなかったのだとか。
それでも1万5千VS500人ではとうてい勝ち目はありません。
なぜ田辺城の軍勢が助かったのかというと
後陽成天皇の勅使が西軍に送られたからなのだそうです。
細川幽斎は当時の日本では有数の文化人。
この人が死んでしまうと日本の伝統である「古今和歌集」の
伝承者がいなくなり、途絶えてしまいます。
それを憂えた天皇からの仲裁?があったためでした。
そのため52日間の包囲戦の後、勅使の到来で
城の包囲が解かれました。
戦後の論功行賞で、南方面から田辺城を攻めずに手加減していた朋輩は
幽斎がその旨、家康に口添えしたのでお咎めなかったそうです。
わずか500人で1万5千人を舞鶴に引き留めたおかげで
西軍が関ケ原の戦に参戦することを阻んだとして
家康はこれを評価し、武断派として東軍に与し戦った
息子の忠興は豊前小倉33万9千石に加増移封。
そして幽斎はその後は京都の吉田で悠々自適の隠居生活。
戦国武将の中でもこの人はなんというか世渡り上手・・的な
印象がありましたが、実際にはそういう軽いものではなく
勇気もあり、かつ時勢を読むのに敏い人だったのだなと思います。
明智光秀や加藤清正らとの違いはそこだったのかもしれませんね。

この方、元首相の細川護熙氏のご先祖ですね。
目元のあたりがそっくりでDNAの継承に驚きます・・

太平の江戸時代、舞鶴は北前船が寄港する町として栄えました。

城下町としてにぎわっていた様子が
ジオラマで再現されています。

笊に乗った野菜とかそんな部分まで再現されていて
観ていて楽しい。
江戸期の舞鶴は当初、京極家が藩主でしたが
1668年から牧野家が入城。
明治維新までずっと牧野家。
これは牧野家の甲冑。

資料館をあとにして公園内を散歩しました。
ここだけは藤孝時代の石垣。
もともと湿地だったので石垣もあまり高いのが作れなかったのだそうです。


桜の木も多く植えられているそうですが
もう初夏の風情ですね。小さなお庭ですが趣があります。
ここは古今伝授の松。

お庭の一角にあり、石碑が立っているのですぐわかりました。
この松の木のところで古今伝授が行われたとか?
日本文化ではこうした秘伝的なものは書物で残さず
口伝や切紙のかたちで伝えるものだそうです。
そういえば私も茶道を習っていた頃、ある時期から
稽古の内容は先生からの口伝だけでした。
初歩の作法などについては本屋さんで売っている
テキスト通りなのですがそれより上になると
稽古の内容は文書化されていないのです。
こういう伝統は今も継承されているのですね。
私はもうほとんど忘れちゃった・・。





公園内にはとても立派な木が枝を広げていました。
なんだか意思をもっているような枝ぶり。
この公園を守ってくれているかのようです。
公園の前にあるのは小学校。
他の土地でもそうですが元・藩校だったところ。


ちょっとカーブのはいった門。
身分関係なく学ぶことができた学校だったそうです。


舞鶴は立派な文化財が残る土地だと思います。
周辺もまたゆっくり歴史探索してみたいです。