
備中松山城を下山してから少し時間があったので
連れていってもらいました。(*^-^*)
歴史的にはこちらのほうが重要度が高いところ、
秀吉水攻めで有名な備中高松城です。
今は殆ど何も残っていなくて周囲は住宅街や
きれいに整備された公園になっています。


立ってみると一面、平地のようで遥か遠くに山が見えるという感じ。

ここでの歴史については随分昔に司馬遼太郎さんの「播磨灘物語」で読んで知りました。
最近ではNHK大河ドラマでの「軍師官兵衛」でも登場しました。
戦国時代、織田の命を受けた羽柴秀吉の軍が毛利を攻めて
ここまでやってきました・・・が、この地を守る清水宗治をせめあぐねることに。
軍師黒田官兵衛の進言でこの周囲に堤防を築き、お城のあったところを水攻めにしました。
でも、その真っ最中に京都で主君信長が明智光秀に討たれて死ぬ、という事態に。
信長の死は秀吉の側に先に伝えられ、
この時点ではまだ毛利方には伝わっていない。
毛利がそれを知ったら大変なことになります。
秀吉方は慌てて毛利方と「和睦」というかたちを取りました。
その条件となったのがここの城主、清水宗治の切腹でした。

清水宗治は毛利への忠誠心の高い人で
5千人の兵を救うためこの地で自害しました。
この看板はその場面。手前はその様子をみる羽柴軍。
黒田官兵衛の姿もみえます。
ちょっとズームアップ。
最後の舞を舞う清水宗治。
彼はここで切腹して果てます。

本当なら、情報がもっと早かったら・・・死ななくても良かったのに。
だからこそ、この場面は涙を誘います。
毛利軍との和睦を成立させた後、秀吉は大急ぎで京都にUターンします。
有名な中国大返しです。その後の経緯は日本史にある通りで
秀吉は信長の跡を継いで天下人への道を歩むことに。

水攻めされたところは周囲よりちょっと地形が低くなっています。
最近になって岡山市がその一部の沼地を復元したようです。
蓮の花がいっぱい植えられていました。


本丸跡には城主、清水宗治の首塚がありました。

辞世の句も。
「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」
戦国時代はとっても残酷な時代だったと思います。
死を美化するつもりもないですが、当時の価値観という視点で
眺めてみると・・・宗治公の最期は
戦国時代の中で一番潔く、非常に立派なものだったのではと思います。

戦場跡とはいえ、その名残は薄く、
かなり想像力を使わないと往年を想うことができない感じです。
でも大変美しく、きちんと整備されており、
このお城跡を歩いてみて感じたのは、
清水宗治公は現在に至るまでずっとこの土地の人から尊敬され、
郷土の誇りとされているお殿様なのだろうなということでした。

三の丸あたりにいた時に見知らぬ年配の方から声をかけられ、
観光でやってきた旨、話すと、この辺の歴史をざっと説明してくれて、
車の中においてあった資料をくださいました。(^-^;
これ、帰ってから目を通していると、とてもわかりやすくて復習に役立っています。
6月上旬の清水宗治公の命日にはここに子孫の方々や自治体の長らが
集って430何回目だったか・・・の法要がとり行われるとのこと。
それにも驚いた。
やっぱり宗治公は愛されているのだなと感じずにはいられませんでした。
そして去る前にもう一度、遠くまでこの地を眺めてみました。
ここを水攻め攻略するという奇策を実行した
秀吉の凄みを想いました。