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現存天守12のうち唯一の山城である備中松山城。
前方の門と櫓は平成になってから復元されたものだと
ブロ友さんが教えてくれました。

それでも親幕派のお城だったのに、どうして今まで残ったのか。
調べてみたところ、明治維新で全国のお城が破却される際、
このお城が高いところにありすぎ、解体費用もかかるので
解体したことにしてそのまま放置したことによるのだとか。(^-^; 
地理的に不便なところにあったことが幸いしたのですね。

全国で破却を免れ残されたお城も都市部にあったものは
太平洋戦争時、多くが空襲で焼けてしまいました。
空襲の難を逃れたのもやはりこの地理的な理由によるのでしょう。

でも明治後、忘れ去られたお城はどんどん劣化が進み、
ネットでたまたま見つけた昭和の頃の写真は見るも無残な廃屋状態。
よくここまで修復したものかと思いました。

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荒々しい天然の岩盤の上に築かれた石垣と二層二階の天守。
野趣を感じる雰囲気がとてもいいです。

内部

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シンプルで力強い造り。往時を彷彿とさせます。
コンクリート城にはない魅力がこの雰囲気だと思います。

1階の床部分に珍しいものがありました。
これは囲炉裏であったそうです。

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籠城時の食事や暖房用に備えたものであったとか。

すぐ近くに装束の間という部屋もあり、やはりこれも籠城の時のための城主のお部屋だったそう。

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このお部屋では戦国時代の城主三村元親が
毛利家に離反し織田家と通じた備中兵乱の経緯が
ビデオ上映されていました。

松山城を要塞化して戦ったのですが、毛利勢は持久戦に持ち込んで
内部からの崩壊を待ったのでした。

装束の間や囲炉裏などの設備があるのは
過去にここでこうした歴史があったからなのか、と思いましたが
何よりも昔は生と死が常に隣り合わせにあって、
日々精神が張り詰めていたような時代だったのじゃないかな、とか
平和な今の時代ではその空気感はなかなか想像しにくいですが
いろいろ空想してしまいました。

連子窓です。
正方形の角材の角を外側に向けてあり、外からは内側が見えにくく、
内からは広角に敵兵の動きが見える造りになっています。

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窓の向こうには太陽の光を受けて輝くばかりの新緑が目に入りました。
よく今の季節の緑を「眩しい」と表現しますが、本当にそんな感じ。

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二階への階段です。
珍しく踊り場が付けられており、これもやはり敵が攻め込んできた時に
すぐに入ってこれないための造りなのだとか。

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下を見下ろした図。
5月の爽やかな風が気持ちよく、登城日和な日でした。
風にあたりながら、ブロ友さんといろんなお話をしました。
ブロ友さんは昨年の今ごろ、お伊勢参りに三重に来て下さいました。
あの時も伊勢志摩を案内がてらといいながら
観光そっちのけで延々と話し込んでしまったのですが
今回もここの景色を眺めながら話が止まらず~(笑笑)
いろいろ歴史談義をしました。

歴史に「もしも」はないですが、私はそれを想像するのが好きです。
もし信長があと20年、長生きしていたら?
秀吉の弟の秀長がもうちょっと長く生きてくれていたら?
そんな話をしました。
もし寧々さんが子だくさんだったら? 
日本の歴史はがらっと変わっていたかもしれないですね。

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二重櫓。
ここを下からみたらすごい絵なのに見るのを忘れた。(*´Д`*)

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帰ります。

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最後に振り返ってもう一度、あの素晴らしい石垣を眺めながら下山しました。
帰り道は往路と別の道を歩いてみましたが、なんとコンクリート舗装されていて
とっても歩きやすかったです。
下からあがってくるとき、右側にある道を使うほうが楽かもしれません。
雰囲気はあの山道のほうが良いですけれどもね。(#^^#)

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本当に素晴らしいお城でした。家に帰って、いろいろ調べてみたら
見落としていた箇所が結構あることに気付き、惜しい気持ちに。
もう既に再訪したい気持ちでいっぱいです。
この日は、もう少し時間があったので、
秀吉による水攻めで有名な備中高松城に連れていっていただきました。
こんなところを周れたのも車で案内いただいたからこそ。
次の記事に続きます。

さて現存天守は12のうち9まで制覇。
あと宇和島城、弘前城、丸岡城でコンプリートです。
丸岡城なんていまなら日帰り圏内。次回のお城訪問はココになるかも。(*^-^*)