
またしても冬に戻ってしまったかのような寒い日です。
小浜市内にある「山川登美子記念館」へ行ってきました。
山川登美子は小浜出身の明治時代の歌人。
与謝野鉄幹が創刊した「明星」で活躍しました。
現在はその生家が記念館として一般公開されています。
山川家は小浜藩酒井家の重臣。
登美子の父親は明治期には銀行の頭取を務め、
彼女は大変裕福な家のお嬢様として育ちました。

与謝野晶子とも親しい友人であった一方、
鉄幹を巡って三角関係に陥ったこともありました。
その後、親に勧められた相手と結婚したものの、
結核に倒れ、わずか29歳という若さでこの世を去りました。

生家の玄関。右側に勝手口があり、そこが記念館の入り口になっています。
(勝手口といってもとっても大きい!)
往時より規模は小さくなっているとのことでしたが
築140年だったか武家屋敷らしい風格を感じる佇まいです。
上品な雰囲気の中庭がありました。
いくつかの部屋が展示室になっており、
彼女の着物やかんざし、琴、与謝野晶子と一緒の写真、
愛用のタンスなどが展示されていました。
私は登美子さんのことはあまり知らなかったので
へ~っと思いながらみるばかりでしたが
この辺、詳しい人であれば見たらすごく嬉しいだろうものばかり。
企画展示では彼女の詠んだ短歌が数多く紹介されていました。
与謝野晶子と鉄幹を巡り恋の争いをしたものの、結局、身をひいた登美子。
彼女がその時、詠んだ歌:
~それとなく 紅き花みな友にゆづり そむきて泣きて忘れ草つむ~
(それとわからないように紅い花をみんな友のあなたにゆずり
私は背を向けて泣きながら忘れ草を摘むのです。
恋も歌への情熱も忘れるために。)
もうひとつ心に残ったのが
~わが息を 芙蓉の風にたとえますな 十三弦をひと息に切る~
(私の息を芙蓉の花に吹く風のような優しいものに例えないでくださいね。
私は琴の13本の糸を一気に切ってしまうのです。)

鉄幹からはその清楚さゆえか「白百合の君」と呼ばれていたという登美子。
情熱的な晶子の存在があったためでしょうか、
登美子に対しては晶子とは対照的で物静かな女性という印象がありました。
しかし、こうやって彼女の歌を追ってみると、実は彼女も晶子に負けないくらいの
情熱家だったのかもと感じました。
ただ堺の商家で生まれ育った自由奔放な晶子とは違い、
厳格な武家の家柄で育った登美子は
理性が強くて、やはり世間や周りとの関係を壊すことをよしとせず
その情熱を理性でもって抑えるほうを選んだのではないかと思いました。
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左側が「明星」の表紙。
右側はミュシャの作品。
ミュシャの影響を受けていることがわかります。

与謝野晶子、増田雅子との合同詩歌集「恋衣」の表紙。

「恋衣」には晶子の「君死にたまうことなかれ」が収められていました。
日露戦争に出征した弟を想う歌でしたが、これが世の物議を醸し、
登美子は当時在籍していた日本女子大から休学処分を受けました。
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訪れた時に来館者が私だけだったので、
係員の方がコーヒーをいれてくださり、いろいろお話をさせてもらいました。
館内の写真撮影は禁止だったので写真はありませんでしたが
昨年末に公開された岡田准一さん主演の「海賊とよばれた男」の
シーンのひとつがこちらの生家で撮影されたそうです。

近藤正臣さんと岡田准一さんがロケにみえたとのこと。
岡田さんはとても礼儀正しくてきちんとした方だったそうです。(*^-^*)
図録を一冊買い求めました。

私が若い頃からお世話になっている方が
与謝野鉄幹、晶子夫妻について
長年、個人的に研究をされています。
そういえばこの記念館には
まだいらしたことがないとのことだったので
これを送らせてもらおうと思います。
喜んでもらえるといいな~~(*^-^*)