
昨日はお伊勢参りの際、一緒に参拝いただいた
月読宮の元宮司さんと参道を歩きながらいろいろなことを話しました。
私たちが訪れた時間帯は直前に雨が降っていて
神域全体が雨上がりでしっとりと濡れ、周囲のすべてが
いつも以上に清らかな感じがしました。
元宮司の谷分さんは普段から全国各地から参拝に訪れる方々に
神宮の案内をされています。
遠方から参拝のお客さんがみえた日の空模様が
晴天ではなく雨がしとしとと降っている時、
谷分さんは最初の挨拶に
「今日はあいにくの雨で・・・
」とは決して言わずに

「清めの雨の中をようこそ
」と言われるそうです。

そして大雨の日は
「今日は禊の雨ですね
」と。

神社を参拝する時に禊の雨が降るのはとても縁起の良いことです。
邪気や悪いものを神様が洗い流してくれる、
神様に歓迎されているということ・・・。(´▽`)

遠方からはるばるお伊勢参りにやってきて
「あいにくの・・・」と言われると、言われた側は
なんだか自分はツイてないなと感じそうです。
でも
「神様に歓迎されていますね」といわれると
とても嬉しい気持ちになります。
そのほかにも「運が良かったですね」
という言葉も実は使わないんですよ、と。
それよりは「ご縁があったのですね」という言葉を
使うようにされているそうです。
私も実は「運が良かったね」と人から言われると
それを言われたシチュエーションにもよりますが微妙な気持ちになることがあります。
なんだか相手の言葉の裏に皮肉めいたものがあるような気もして
素直に喜べない。でもいちいち顔に出すとこれまた面倒なので
素知らぬ顔をして流しています。

丁寧な言葉を使っているようで
実は「かすかに」不快な想いを抱かせる言葉が結構あるように思います。
その言葉は発する人の人間性や心のありようを実は知らぬ間に
映し出しているのではないかなと。
「あからさま」ではないので、本人は自覚していないかもしれないし、
あえて他者から非難される機会もないだろうけれど、
常々、会話のたびに相手を「かすかに」げんなりさせる言葉を使う人は
自分で自分の運を少しづつ落としているような気がします。
不快と伝えるには大袈裟なので
言われた本人もいちいち相手にいわないけれど
「この人と会話していると嫌な気持ちになる。」
「なんかあまり話したくないな。」
「次は会いたくないな」と心のどこかで感じると思うのです。
逆に心を爽やかにしてくれるような
言葉をさりげなく使う人と接しているととても気持ちが良いです。
「またこの人と会いたい」、
仕事でかかわる人であれば
「こういう人と一緒に働きたいな」と感じます。
何気ない言葉が相手の気持ちを良くも悪くもさせます。
嫌な気持ちになることを言う人とは次は会いたくないし、
その人のために何かしてあげよう、という
気持ちも持てません。その逆も然りで。
美しい魂を感じさせる言葉を使う人のところには
自然と良いご縁が出来、より充実した人間関係が
築き上げられていくように思います。
最近、北陸に引っ越すことを周囲に伝えた時、反応はいろいろでした。
「あっちは暗いね」「寒くて大変ですよ!」「雪が多くて不便で大変」という人が7割。
(良いように解釈すると「覚悟しておいたほうがいいよ」というアドバイスかもしれないですが。)
「水がきれいで食べものが美味しい」「土地柄の良いところ」などと言ってくれる人が3割くらい。
谷分さんは「貴女が住むところは文化レベルが高く、良いところだと思いますよ」と
言ってくれました。

さりげない言葉の端々にその人が物事の「どの部分」をみているか、が
如実に出るような気がします。それはその人の思考の一部でもあって。

人間の幸せは誰かが運んできてくれるものでもなく
たまたまの運でもなく、普段の心の持ちようと、そこから自然に出てくる
言葉が作るものではないかと改めて思った次第です。
マザーテレサの言葉です~ (*^-^*)
思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。
