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今回の旅で遥か遠い鹿児島まで行ったのは
どうしてもここを訪れておきたかったからです。
鹿児島県の知覧、鹿屋は戦時中、
それぞれ陸軍、海軍の特攻基地があった場所です。

特攻とは太平洋戦争の末期に考え出された戦術で
航空機が爆弾を装着して敵艦に体当たりするというもので
操縦者であるパイロットが必然、「死ぬ」ということを前提としたものでした。

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ここを訪れたのは特攻機に乗り込んで死んでいかれた
パイロットの方々の想いを自分の心で感じたかったからです。

知覧は鹿児島市内から30キロほど南にあり、
今はお茶の栽培が盛んな土地らしく「知覧茶」の看板をあちこちに
見かけました。三重県でいえば伊勢志摩のように海が近くに見え、
緑が豊かなのんびりとした雰囲気の土地です。

基地のあった場所が現在、資料館となっているのですが
館内には特攻隊員らの写真、遺書などの遺品が4500点、
遺影1036柱が展示されています。

戦後、海中から引き揚げられたゼロ戦や
隊員たちが出撃前の数日を過ごした兵舎(復元)も
見ることができました。
写真撮影NGということだったので、ウエブサイトからお借りした写真です。

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館内には「第○次総攻撃」と記された表示の下に
隊員らの名前、年齢、没年が記載された写真が展示されていました。

特攻が考案された時期、日本は既に敗色が濃くなっていました。
もう9割9分負けるという状況まで追い込まれていたのです。
この状況下、自分の命と引き換えに日本を守るという想いを抱いて
多くの若者が飛び立っていきました。
年齢は殆どが20歳前後。実際には10代の隊員も多くいて、
その表情は子供のようなあどけなさなのです。
将来あるあまりにも若い人たちが、このような運命を辿っていったことが
非常にショックでした。

これもウエブサイトからお借りした写真です。

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特攻前日の少年兵らの前をたまたま通りかかった
新聞記者がカメラに収めた写真の一枚ということです。
とても翌日には死んでゆく人らのようには思えなかったという
言葉が添えられていました。

攻撃の命令が下りて、飛び立つ前に彼らが
両親や妻子、婚約者らに宛てた手紙が写真と共に展示されていました。
時間の許す限り、ひとつひとつ丹念に読みました。
殆どの手紙は個人的な感情を抑えた内容で、国のために死にゆくことを
誇りと感じている、両親に対しては十分な孝行もできずにすみません、とか
子供にはお父さんはお国のために喜んで死んでいくのだから
お母さんのいうことをよくきくように、とか、婚約者には結婚できずに申し訳ないが
過去のことは忘れて幸せになってほしい・・何よりも国を救うためには
自分が行かなければならない、そういうことが綴られていました。

本当に圧倒されるような膨大な量の資料です。
彼らが自身の命を犠牲にしてでも国を救わなければならないと考えていたのは
本当だと思います。痛いほどその想いが伝わってきました。
でも、でも・・膨大な遺書の行間からは彼らのもうひとつの
心の叫びが聞こえてくるような気がしてならなかったのです。

お父さん、お母さんに会いたい、
妻に会いたい、
子供に会いたい、
婚約者に会いたい、
本当は死にたくない・・・、と。

感情を必死で抑えているから余計にその想いが伝わってくるような。
本当は死にたくない、生きて家族のもとに戻りたい。
しかし戦時中の空気というものがそれを絶対に許さなかったのではないかと。

私が忘れられなかったのは、多分幼児の頃、産みの母と別れた隊員が
育ての母に宛てた手紙でした。ずっと「おかあさん」と呼ぶことができなかったけれど
本当はそう呼びたかった、最後に「お母さん、お母さん、お母さん」と繰り返して
綴られていた手紙。それから朝鮮人であることを隠していた隊員が
出撃の前に隊員に食事を提供する食堂のおばさんに小声でアリランの歌を歌っていった
という話。

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この復元兵舎は以前、石原慎太郎さんが監督された
戦争映画で出てきたことがあったので覚えていました。

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隊員らの命を犠牲にするという戦法は命の大切さを完全に無視したものです。
命を軽視する戦法は絶対に許されてはならないこと。
資料館の展示はこのような悲劇を生み出す戦争を
絶対に起こしてはならないと強く訴えるものでした。

過去に何度も特攻についての話や映像に接していましたが
実際に自分の目で見て心で感じるものとは大きな隔たりがありました。
誰かの編集という手を経たものを観るのとは違い、
隊員らの感情がよりダイレクトで、
鋭く心に突き刺さるように伝わってきた感じがしました。

今年は戦後70年。
平和と命の尊さをしっかり噛みしめたいと思った日でした。

知覧特攻平和会館のウエブサイトです。


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