
今月は「白い巨塔」を読みました。
社会問題を扱った本や小説が好きということもありますが、
著者の作品は一気に読ませる迫力、凄みがあります。
人間の持つ業と弱さを財前五郎や他の人物の中に見る思いでした。
一方で自身の栄達よりも患者や研究のことを第一に考え誠実に
生きる里見脩二のような人物の存在に救われるような気持ちもしました。
権力って魔物ですね。
多分お金よりももっと人間を魅了するものかもと思いました。
小説を読むこと、映画を観ることなどの面白さの一つは
自分以外の人間の人生を追体験することにあると思います。
いつまでたってもわからないのが人間というものの存在であり
それがまた面白いところかもしれません。
この作品は1966年以来、何度も映像化されています。
そういえば学生時代にビデオで借りてきた田宮二郎主演の映画を
一度だけ観たことがありました。田宮二郎さんがどんな顔の人だったかさえ
おぼろげにしか覚えていないのに、この小説を読んでいると頭の中に浮かぶのが
彼が演じた財前教授の姿です。後で知りましたが、「財前五郎」という名は
田宮二郎の本名、柴田吾郎から取ったものだったそうです。
「風と共に去りぬ」の作者が当初からクラーク・ゲーブルをイメージして
レット・バトラーを描いたように、山崎先生も彼をイメージしていたのでしょうか。
もう最後の教授総回診の場面しか覚えてない映画ですが、ハマり役だったのですね。
作品からは著者の正義感、権力に対する反骨心、社会的弱者への眼差しを
そこかしこに感じます。著者自身の主治医が出向されたのがこの作品を
書くきっかけになったそうですが、のちに東京大学医学部に端を発する
大学紛争にも影響を与えたということも後で知りました。

著者はドイツの社会心理学者。この本は1941年に出されたナチズムについて
研究した一冊で、当時のドイツ国民がなぜヒットラーの支持に走ったのか
書かれています。
抑圧された状況にある時、人間は自由を求めるものですが、
一方で自由であればあるほど、その重荷に耐えられなくなる、
という人間の心理についての考察です。
自由には「孤独」と「責任」が伴います。それを覚悟した上で構成される
社会が理想ではあるものの、当時のドイツでは急速に変わりゆく時代背景の中、
その覚悟がないまま、自由社会に投げ出されていった人々が多くいたのですね。
それまでのヨーロッパは封建社会であり、
家族や地域、共同体といった集団が個人の自由を制限していました。
鬱陶しいながらも他者との関わりが濃密に存在していたのです。
しかし、その後、資本主義が広がるにつれて
旧来の社会体制が壊れていきました。人々は自由を獲得した一方、
それまで感じることのなかった孤独や不安と向き合うことになってしまったのです。
新しい時代を歓迎したのは上層の資本家層です。しかし都市の下層中産階級は
資本主義の恩恵を大きく受けるわけではなく、彼らの心の中には
無力感が広がっていきました。第一次大戦で負けた後、
ドイツは多額の債務を抱え、急激なインフレが起こりました。
大恐慌の影響で人々の不安は増幅され、
社会からの孤立感を強く感じたのもこの下層中産階級です。
この状況の中、自由の重荷から逃れて依存と従属を求める人々が多くいました。
何か権威的なもの、自らが所属する場を求めていた人々の前に現れたナチズムに
人々は熱狂し、自らその支持に走っていったのです。
自由のもつ意味と、ナチズムの台頭を許した人間の心理状態について
いろいろ考えさせられる一冊でした。ヨーロッパで今、再びネオナチが台頭したり
日本ではオウム真理教の事件があったり。悲惨な歴史が繰り返すことがないよう
今、対処すべきことが多くあるのではないかと思いました。

著者は資生堂の名誉会長であり、読書家としても知られる福原義春氏。
今の世の中は本当に良いものが良いと評価されておらず、
本当に美しいものが美しいと評価されていないと著者は語っています。
かつて、本当に美しいもの、価値あるものが存在していたのに
それらは効率性や経済性を重視する世の中の犠牲となってしまったと。
有名だから良い、高い値段だから良いという価値観に惑わされている人が
多いのではないか・・。有名な作品が日本に来たといって
行列を作って美術館に出かける一方で、
足元に咲く可憐な花の美しさに気づいていないかもしれません。
私は人類の歴史は進歩の歴史だと思っていましたが、
著者は「人間は退化しつつある」というようなことを仰っていて
意外な想いがしました。でも確かに進歩していると思っていたのは
科学技術という分野においてであり、
感性といった視点に立ってみるとどうでしょう。
「源氏物語」に描かれているようなごくわずかな自然の変化に
感応する心は今の時代の人間にもあるのかな、とか。
人間の生活には便利さと引き換えに五感の劣化という
犠牲が知らず知らずのうちにあるのではと思ってしまいました。
興味深かった例のひとつがオーディオ機器の話です。
80年代にオーディオの世界ではアナログレコードがデジタル化され
CDに移行しました。その後、MDができ、
現在のような形を持たない音声ファイルになりました。
レコードからCDへの変化は便宜性、保存性を優先させたもので
音の質という面では大きく低下してしまいました。
デジタル化される際に耳に聞こえない周波数の音域などが
カットされてしまったそうです。聞こえないから要らないという発想からですが
ある研究によると人間の耳には聞こえていない2万ヘルツ以上の高周波を
含む音が人間の身体と心の健康を司る基幹脳を刺激し、
快適感をもたらしているのだとか。
耳に聞こえなくても、高周波や低周波の音をカットしてしまったCDの音と
レコードの音では人間が受けとるものに大きな違いがあるということ。
耳に聞こえない高周波の音は皮膚バリアの回復速度にも影響しているそうです。
音にこだわる人、耳の肥えた人は今でもアナログ音源を楽しんでいます。
ブロ友さんにもアナログレコードを楽しんでおられる方がみえることも
この箇所が印象に残った理由です。
同じように効率性、経済性という理由で消えていったものが、
カメラの独特のシャッター音だったり
昔の自動車の一見、無駄と思えるデザイン、機能だったりするのです。
我々はコンピュータなどの便利な機械に頼りすぎて
感性や直感を使わなくなり、五感で感じるものの良さを我々は見逃しがちになっていると。
便利なものに慣れきっていてCDの音が断然よいと思い込んでいた私は
すっかり音感が劣化している人間のひとりであることがわかりました。(>_<)
デジタルって0か1かの世界ですものね。考えてみればなるほどでした。
今月はあとこんな本をよみました。合計で11冊です。
GWにもっと本を読めるかなと思っていましたが
結局、毎日遊びに出かけていたので休みがあると逆に読書量が減ります。
昨夜、寝る前に「くじけないで」を読みました。
心に温かさがじわじわと広がる一冊でした(#^^#)
